恋わずらい
だが。
頭に浮かんできた。
家族や、明陀に関わりのある人々の姿。
大切にされてきたと思う。
裏切るようなことはしたくない。
義務感とか、そういうことだけではなく、心の底から大切に想っているから。
強い想いが胸にこみあげてきて、けれども、言葉として口からは出てこず、その代わりに眼からあふれ出る。
熱い頬を涙が流れ落ちるのを感じる。
柔造が動きを止めた。
ただ、じっと、こちらのほうを見ている。
そして。
蝮の頬に触れていた柔造の手が離れていった。
しかし、その手はいったん下ろされかけたが、ふたたび蝮の顔の横まであげられる。
その手は拳に握られ、壁に打ちつけられた。
「好きやのに……ッ」
柔造は堅く眼を閉じ、顔をゆがめて、やりきれない気持ちをぶつけるように言った。
その言葉が蝮の胸を打つ。
心が大きく揺れた。
それでも、応えることができない。
自分もそうだと、返事することはできない。
大切なものがひとつしかないのならいい。それを選べばいいから。
でも、そうじゃない。
大切なものはひとつだけじゃないから、どれかを選ばなければならなくなれば、大切でも選べないものがある。
選べないものは、あきらめるしかない。
どんなに苦しくても、その気持ちを押し殺してしまうしかない。
柔造の手がおろされた。
その腕は力を失ったように伸びている。
部屋の中は静かになる。
外の雨音だけが聞こえる。
しばらくして、蝮は立ちあがった。
柔造は動かないでいる。
その横を、蝮は通りすぎる。
動かない柔造から遠ざかっていく。
やがて、襖の近くで足を止めた。
襖へと手をやる。
だが、襖を開けようとした手を止めた。
蝮は振り返らないまま言う。
「さっきまでのこと、私は忘れる」
言われたこと、自分が言ったこと、全部。
「だから、志摩も、忘れて」
全部、無かったことにしてほしい。
そう望んだ。
蝮は襖を開ける。
そして、部屋の外に出た。
襖を閉めた。
蝮は廊下を歩く。
歩きながら、ふと、思い出した。
抱きしめられたときの感触、見すえてくる真剣な眼差し。
忘れると決めたのに、勝手によみがえってきた。
廊下の窓からは雨が降っているのが見える。
しかし、蝮はその光景に眼をやることはなく、記憶を振りきるように早足で廊下を歩き続けた。