孤独な彼との数ヶ月 6
――五ヶ月目の終わりに――
『その瞳に永遠を見る』
「お前は、何が楽しくて生きてるんだ?」
なんの脈絡もなく始まった問いかけに、服を脱がす手が思わず止まる。
僕は、いささか、げんなりした顔をした。
最近、この生き人形がなにかを考え込むしぐさをよく見せるのには気づいていたが、なんとなく嫌な予感がして、見てみぬふりを決め込んできた。
僕が、昔のくせで『兄さん』と呼び間違えることを、燐は近頃、ひどく気にしていた。
『兄さん』と呼び間違えた時、そう呼ばれてすぐは大人しく従うのに、しばらくして、ふいに、びっくりした顔をちょっとだけするのだ。
“ なぜ、いつもとちがう呼び方をされたのに、応えてしまったのか、自分でも分からない ”とそんな顔をして、一度、動きをとめて僕をちらちらと窺うのだ。
そんなことをしても、僕は答えなど、今は、けっして話す気はないというのに。
けれど、しかめっ面をしはじめた僕を無視して燐は言葉を続けて。
「いつもおれのことそばに置くけど、心から楽しそうって感じじゃないし、いつも、なにかにびくびくしている気がする。なあ、なんか生きてて良かったと思えることあるか?」
よりにもよって、ベッドの上で人生論議か……。もっと色っぽい睦言をお願いしたいものだ。
なにより、そんな話題は聞きたくもない。
楽しいかだって?
死んだ想い人を、生き人形にしてはべらせて、いつも一緒だ。
僕は、それ以上は望まない。
楽しみなどいらない。ただ、安心が欲しいだけだ。
この人が、もう二度と離れていかないという確約に近いものが。
「こんな時に、やめてくれ。萎える……」
僕のつぶやきに、燐は、真顔で、
「ちょうどいいだろ。お前は少し萎えることを知るべきだ。毎晩、盛んな」
おれの体を考えろ、と訴えた。
恋人の訴えは却下だ。
離れていたぶん、その埋め合わせをして欲しいと思うのは、間違ったことじゃないはずだ。
死が引き離した、大切な恋人。
ようやく僕のもとに引き戻すことの叶った命。
毎日、物質界のどこかで誰かが死んでいる。人が死なぬ日などない。
日々、世界中に死がありふれているとしても、燐の死だけは、許しがたい喪失だった。
数ヶ月前の絶対に許容できぬ、兄の愚行。
思い出して腹が立ってきた僕は、少しばかり乱暴に燐の尻尾を掴んだ。
「ひっ!」
燐が悲鳴をあげて目を見開く。
ちょっとだけ溜飲が下がったが、こんなことで済ますつもりもない気だった、が……。
「うわっ!」
今度は僕が呻く番だった。
燐が、はっしと僕の尻尾を爪をたてて掴んだのだ。
悪魔落ちして生えてきた、燐とおそろいの尻尾。僕にとっても当然に急所だ。
ああ、まさに、『窮鼠、猫を噛む』だ。
「なにするんだよ、兄さん!」
僕の金切り声。
“ 兄さん ”という言葉に、燐が、小首を傾げた。悲しむような、哀れむような、曖昧な感情の浮かぶ瞳。
僕は、自分の失態に気づき、ほぞを噛む。
「……ああ……、言い間違えた、だけ…………」
僕は、いつものお決まりのセリフでごまかそうとしたけれど、燐は、この話題を切り替えさせなかった。
「お前が、その話題に触れられたくないの分かってる、けど……」
燐が僕の尻尾を掴んでいないほうの手で僕の頬にそっと触れる。僕は熱い鉄の塊を押し付けられたように顔をゆがめた。
「………燐、命令だ。それ以上、この話題を振るな」
口調こそ命令形だが、僕の声は弱々しく、許しを請う人のようだった。
燐は、いやいやとかぶりを振る。
「その命令は聞けない」
反抗的な人形。主人に逆らうことは禁忌だと教え込まなければ。
黙らせなければ、ああ、さもないと………。
僕はどこか必死になりながら言葉を探す。どんな言葉も喉の奥で空回りして、僕は小さく呻いた。弱った獣のように。
傷があるのだ。絶対に触れられたくない傷が。
今日まで、お互いほじくりかえさずに、うまくやってきたじゃないか。
一緒になって、気づかないふり、知らないふりをして。
なぜ、今更になって、燐は……、兄は、こんな残酷な話題を掘り起こそうとするのだろう。
兄さん、あなたは、ずっと、僕の傷をえぐる機会を狙っていたの?
無邪気な生き人形のふりをして、守ると誓ったくせにあなたをたった一人で無残に死なせた僕に、復讐する機会を。
嗚呼、そんなことはあるわけがない。分かっている。兄は、何も覚えていない。なにも……。
ふいに僕の頬を燐の舌がそっと辿る。
「しょっぱい」
燐が舌を引っ込めて、そう言った。
ああ、僕は泣いていたのか。
追い詰められている。これは、苦悩の涙だ。苦しみが、水になって目からあふれる。
燐が僕の尻尾から手をはなし、両手で僕の眼鏡をはずした。
「汚れる」
よく気のつくことだ。そう皮肉気に思う。皮肉は僕の専売特許だ。
そして、兄を守ることも、僕だけの役目だった。
他の誰にもできないことだと思っていた。そして、しくじった。
すべて過去だ。変えられない。でも、忘れることはできる。
蓋をして、見ないふりで、いつか時が忘れさせてくれる。それのなにがいけない?
兄に伝えたい言葉がたしかにあったけど、でも、それは、もっとずっと先でいい。
いつか、傷が、もっと、浅くなる日がきたら。
ああ、でも、そんな日が本当にくるのか……。
詮無くぐるぐる思考をこねましている。現実から逃げるように。
でも、燐が僕の意識を引きずり戻す。
逃避を許さぬ、無慈悲な声。
「おれは、…………お前の兄貴の死体から、できてる………そうだろ?」
残酷な答えあわせをしようとしている。取り返しのつかない、苦々しい思いばかりを味わう答えあわせを。
『その瞳に永遠を見る』
「お前は、何が楽しくて生きてるんだ?」
なんの脈絡もなく始まった問いかけに、服を脱がす手が思わず止まる。
僕は、いささか、げんなりした顔をした。
最近、この生き人形がなにかを考え込むしぐさをよく見せるのには気づいていたが、なんとなく嫌な予感がして、見てみぬふりを決め込んできた。
僕が、昔のくせで『兄さん』と呼び間違えることを、燐は近頃、ひどく気にしていた。
『兄さん』と呼び間違えた時、そう呼ばれてすぐは大人しく従うのに、しばらくして、ふいに、びっくりした顔をちょっとだけするのだ。
“ なぜ、いつもとちがう呼び方をされたのに、応えてしまったのか、自分でも分からない ”とそんな顔をして、一度、動きをとめて僕をちらちらと窺うのだ。
そんなことをしても、僕は答えなど、今は、けっして話す気はないというのに。
けれど、しかめっ面をしはじめた僕を無視して燐は言葉を続けて。
「いつもおれのことそばに置くけど、心から楽しそうって感じじゃないし、いつも、なにかにびくびくしている気がする。なあ、なんか生きてて良かったと思えることあるか?」
よりにもよって、ベッドの上で人生論議か……。もっと色っぽい睦言をお願いしたいものだ。
なにより、そんな話題は聞きたくもない。
楽しいかだって?
死んだ想い人を、生き人形にしてはべらせて、いつも一緒だ。
僕は、それ以上は望まない。
楽しみなどいらない。ただ、安心が欲しいだけだ。
この人が、もう二度と離れていかないという確約に近いものが。
「こんな時に、やめてくれ。萎える……」
僕のつぶやきに、燐は、真顔で、
「ちょうどいいだろ。お前は少し萎えることを知るべきだ。毎晩、盛んな」
おれの体を考えろ、と訴えた。
恋人の訴えは却下だ。
離れていたぶん、その埋め合わせをして欲しいと思うのは、間違ったことじゃないはずだ。
死が引き離した、大切な恋人。
ようやく僕のもとに引き戻すことの叶った命。
毎日、物質界のどこかで誰かが死んでいる。人が死なぬ日などない。
日々、世界中に死がありふれているとしても、燐の死だけは、許しがたい喪失だった。
数ヶ月前の絶対に許容できぬ、兄の愚行。
思い出して腹が立ってきた僕は、少しばかり乱暴に燐の尻尾を掴んだ。
「ひっ!」
燐が悲鳴をあげて目を見開く。
ちょっとだけ溜飲が下がったが、こんなことで済ますつもりもない気だった、が……。
「うわっ!」
今度は僕が呻く番だった。
燐が、はっしと僕の尻尾を爪をたてて掴んだのだ。
悪魔落ちして生えてきた、燐とおそろいの尻尾。僕にとっても当然に急所だ。
ああ、まさに、『窮鼠、猫を噛む』だ。
「なにするんだよ、兄さん!」
僕の金切り声。
“ 兄さん ”という言葉に、燐が、小首を傾げた。悲しむような、哀れむような、曖昧な感情の浮かぶ瞳。
僕は、自分の失態に気づき、ほぞを噛む。
「……ああ……、言い間違えた、だけ…………」
僕は、いつものお決まりのセリフでごまかそうとしたけれど、燐は、この話題を切り替えさせなかった。
「お前が、その話題に触れられたくないの分かってる、けど……」
燐が僕の尻尾を掴んでいないほうの手で僕の頬にそっと触れる。僕は熱い鉄の塊を押し付けられたように顔をゆがめた。
「………燐、命令だ。それ以上、この話題を振るな」
口調こそ命令形だが、僕の声は弱々しく、許しを請う人のようだった。
燐は、いやいやとかぶりを振る。
「その命令は聞けない」
反抗的な人形。主人に逆らうことは禁忌だと教え込まなければ。
黙らせなければ、ああ、さもないと………。
僕はどこか必死になりながら言葉を探す。どんな言葉も喉の奥で空回りして、僕は小さく呻いた。弱った獣のように。
傷があるのだ。絶対に触れられたくない傷が。
今日まで、お互いほじくりかえさずに、うまくやってきたじゃないか。
一緒になって、気づかないふり、知らないふりをして。
なぜ、今更になって、燐は……、兄は、こんな残酷な話題を掘り起こそうとするのだろう。
兄さん、あなたは、ずっと、僕の傷をえぐる機会を狙っていたの?
無邪気な生き人形のふりをして、守ると誓ったくせにあなたをたった一人で無残に死なせた僕に、復讐する機会を。
嗚呼、そんなことはあるわけがない。分かっている。兄は、何も覚えていない。なにも……。
ふいに僕の頬を燐の舌がそっと辿る。
「しょっぱい」
燐が舌を引っ込めて、そう言った。
ああ、僕は泣いていたのか。
追い詰められている。これは、苦悩の涙だ。苦しみが、水になって目からあふれる。
燐が僕の尻尾から手をはなし、両手で僕の眼鏡をはずした。
「汚れる」
よく気のつくことだ。そう皮肉気に思う。皮肉は僕の専売特許だ。
そして、兄を守ることも、僕だけの役目だった。
他の誰にもできないことだと思っていた。そして、しくじった。
すべて過去だ。変えられない。でも、忘れることはできる。
蓋をして、見ないふりで、いつか時が忘れさせてくれる。それのなにがいけない?
兄に伝えたい言葉がたしかにあったけど、でも、それは、もっとずっと先でいい。
いつか、傷が、もっと、浅くなる日がきたら。
ああ、でも、そんな日が本当にくるのか……。
詮無くぐるぐる思考をこねましている。現実から逃げるように。
でも、燐が僕の意識を引きずり戻す。
逃避を許さぬ、無慈悲な声。
「おれは、…………お前の兄貴の死体から、できてる………そうだろ?」
残酷な答えあわせをしようとしている。取り返しのつかない、苦々しい思いばかりを味わう答えあわせを。
作品名:孤独な彼との数ヶ月 6 作家名:吉田祐子