T&J
9章 ドラコの苦悩
『すべて無かったことにしてしまいたいっ!』
誰だって一度はそう思ったことはないだろうか?
赤っ恥とか、大きなミスとか、墓穴とか、取り返しのつかない失言とか、どうしようもなくて、『もうこの事実が無くなるのだったら何でもするから、だからお願い』と願ってしまうような、切羽詰ったような気持ち。
ドラコはそんな大きな拭っても拭いきれないほどの過ちと失態に、心が押しつぶされそうになりながら、ずっとその場所から動こうとはしなかった。
――大理石で出来たスリザリンの談話室の一番奥まった場所。
そこは薄暗く、日の光も差さず、いつも冷え切った部分だったので、誰も近寄っても来ないから、ある意味絶好の隠れ場所だった。その部屋の角の目立たないソファーで、ドラコはうつ伏せに倒れこむようにして横になっていた。
ここならばいくら後悔のため息をつこうが、あの忘れてしまいたい事実がフラッシュバックのように思い出されて低くうめいたとしても、誰もいなかった。
心置きなく一人になれた。
もう何百回のため息をついた頃だろうか。
消灯時間が迫ってきた夜半に、間仕切り用のベルベッドの重たいカーテンが動き、深緑の布をめくって入ってきたのは、怒った顔のパンジーだった。
「一日中、授業には出ないし、晩御飯も食べにこないで、ここにずっと篭っていたのか。探したぞ、まったく!」
腰に手をあててパンジーは相手をにらむが、ドラコはぐったりと寝そべったまま、顔さえ上げようとはしない。
「腹が痛いのか?それとも風邪か?頭痛でもするのか?」
立て続けに質問をするが、ドラコはただ頭を横に振るだけだ。
「……そりゃそうだろうな。何、いじけているんだ、お前は?」
パンジーはつかつかと歩いて近寄ってくると、呆れたように寝そべっている相手を見て、おもむろにため息をつき、ドラコを上から見下ろした。
「……お前、何かしくじっただだろ?」
ドラコの顔が引きつるのを確認して、パンジーはさも当然だと言わんばかりにうなずく。
「むかしから落ち込むと、すぐに腰にくるからな、ドラコは。座ることも出来ずに、へたれて伸びて、ひどく落ち込んで、起き上がることすらしないから、すぐに分かる」
「あー、単純で本当に分かりやすい」とまで、ご丁寧に付け加えてくれた。
「うるさいなー。別に落ち込んでないし……」
むすっとした顔でドラコは反論する。
「何があったんだ?詳しく話してみろ」
「お前に話すことなんかない」
「……わたしはいったいお前の何だ、ドラコ?」
パンジーは大きな紫の瞳を近づけて、ドラコにささやいた。
「お前の親友だ。――そうだろ?」
向かい合う彼女の大きな瞳には、肩を落とししょぼくれた自分の姿が写っている。
「お前の唯一の親友はわたしだよな」
そんなのわかっているという感じで、不機嫌な顔のままドラコはうなずいた。
ふっと口元を緩めるとパンジーは満足そうな顔で笑う。
柔らかい手がドラコの両ほほに沿えられて、彼女がひざを折って近づくと、ふわりと野いちごのような甘い香りがした。
ドラコはホッと安堵のため息をつく。
柔らかくて甘くていい香りはまるで、自分が大好きなスイートフードのようだ。
パンジーの外見は冷たくて硬質なのに、こういうふうに心を許した相手には、とても優しかった。
ドラコは甘い香りに包まれながら、彼女の笑みを受けて、表情をやっと和らげる。
この世間知らずの大貴族のボンボンは、自分では気づいていないみたいだが、かなりの甘ったれだ。
パンジーはそれを笑って許していた。
ドラコはまたため息をついた。
ちらりと泣き出しそうなハリーの顔が頭に浮かんだからだ。
今朝から何度、その表情が脳裏を掠めたことだろう。
「はぁ……」
目をつぶって、顔を手で覆う。
「――謝りたい……」
表情を隠した指の間から漏れた声はどこか湿って、震えていた。
「――僕が悪かった」
(ひどいことをした)と後悔で胸がいっぱいになる。
「珍しいな、お前がそんな愁傷なこと言うなんて。傷つけた相手は、いったい誰なんだ?」
「――ポッターだ」
パンジーは小首をかしげ、戸惑った表情を浮かべる。
「ポッターって、あのハリー・ポッターか?」
「ああ、そうだ」
「だって、あんなに嫌っていたじゃないか。ポッターをいじめることに命をかけそうなほど、イジメまくっていたのに、今更どうして?いったい何があったんだ?――というか、お前いったい、何をやらかしたんだ、ポッターに?!」
もし自分のせいでハリーが骨折したとしても、いい気味だとせせら笑って、絶対に謝らないと思われるドラコが、こんなしおらしい言葉を吐くなんて、本当に尋常じゃない。
パンジーは焦った顔になり、ドラコの両肩を思わずつかんだ。
「お前まさか、ハリーを殺ったんじゃないだろうな?!!」
さすがはドラコの親友だけのことはある。彼女の想像力もたいしたものだ。
「ばっ、ばっ、バカ!いいいい……いっ、いったいなんで、アイツを殺さなきゃならなんいだ!!」
ドラコも負けずに、素っ頓狂な声を上げる。
「じゃあ、なんでだ?なんで謝る?!」
「――なんでって言われても……。あー……。そのー……。何ていうのか……」
今度は真っ赤になって、言葉を濁す。
パンジーの片方の眉がピクンと動いた。
「――へぇー、隠し事をするのか?このわたしに喋れないことでもあるのか?」
語尾を上に上げて、少し意地悪くパンジーは尋ねた。
「なにもない!なにもないったら!何も無いぞっ!」
慌てて否定するのも怪しい。
パンジーは薄っすらと笑った。
「キスされたとか?」
「キスなんて、そんな甘っちょろいものじゃないっ!」
「……じゃあ、キス以上なのか?!しかもお前から謝りたいということは、もしかしてお前がポッターを襲ったとか?!」
「やめろ!気持ち悪い!」
ドラコは真っ赤な顔から、一瞬で吐きそうなほど、真っ青になってしまった。
ショックのあまり、からだをガタガタを震わせて、自分の身を守るように両手で抱きしめている。
(まさか、襲われたのか?こんなに怯えるなんて?……でも謝りたいと、ドラコ自身が言っているし?いったい、何がどうなっているんだ、これは?)
パンジーの頭が疑問符でいっぱいになる。
確かにドラコの外見は誰が見ても、非の打ち所が無いほどきれいだった。
見てくれだけなら、おそらくトップクラスの人気だろう。
現に写真部が秘密で発行しているプロマイドの売り上げは、入学以来いつも3位以内をキープし続けていた。
しかし眉間にいつもシワを寄せているようなキツイ表情や、容赦ない態度と毒舌は、かなりマイナスポイントだ。
見かけだけは最高のドラコに言い寄ってくる輩も多いことは事実だが、そんなものにドラコはなびくはずも無かった。
だっていつも彼はハリーをいじめることに、夢中だったからだ。
彼をどうして貶めてやろうかと、いつもそればかりを虎視眈々と考え、結果を恐れず実行していた。
彼がショックを受けるならば、どんな苦労も苦労と思わず綿密な計画を立てるほど、涙ぐましい努力までしている。
そのイジメにかける情熱はハンパではなかった。