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【サンプル】【大人組】世界でいちばん遠い場所へ

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「俺はさ、最近思うんだけど、昔はバイク屋になりたかったけど、考えてみたら、俺はふつうに働くのがあんまり向いてない気がするんだ。流しのギャンブラーみたいな、バイクで日本中回ってさ、そういうのが俺には合ってると思う。そんで、盆と正月くらいは、常伏に戻ってくるんだ。……常伏で、鈍ちゃんは――好きな女といっしょにいるか、ひとりでいるか、わかんないけど、こどもがいてさ、美容室をやってんだ。逸人は、なんだろうな、あいつのことだから、お巡りさんとか先生とかやってるかもしれないな。俺らは――俺と鈍ちゃんと逸人と、鈍ちゃんのこどもと、鈍ちゃんの彼女と、逸人の彼女とかもいるかもしんないな、それに千歳ちゃんも呼んでさ、みんなで飯食ったり、お茶飲んだりするんだ。正月なら、寿司とか、うまいもん食ってさ。たぶん、大人になっても、俺らはそんなには変わんないと思うんだ。色々変わるとこはあるだろうけどさ、大事なとこは、一緒で……」


****


 夜中に突然チャイムを鳴らされるという経験は今までそうなかった。しかも、繰り返し何回も。病魔の件でばたばたしていたときに一度あったが、たぶん、あれ以来だ。夜中に経一がひょっこり押し掛けてくることはよくあったけど、そういう場合はこんなに焦って何度もチャイムを鳴らしたりしない。経一から昼に電話をもらった件もあって、やっぱり病魔絡みでなにかあったのかと思いながら玄関へ急いだ。
 ドアを開けると、そこにいたのは経一ではなく、鈍だった。無言で僕の体を押し退け、こちらが声をかける間もなく、靴を脱いでずかずかと中へ入っていった。
 「なんだい、いきなり」
 「泊めて」
 「は?」
 「泊めて!」
 鈍は語気を荒げた。僕はわけのわからないまま、鍵を閉めて鈍の後を追いかけた。鈍は髪を下ろしたラフな格好で、小型のボストンバッグを肩から提げていた。一体どうしたのか、と問うこちらの声も聞かずに、鈍は僕のベッドの傍に鞄を下ろすと、中からポーチやら着替えやらを取り出して、僕の顔も見ずにさっさとバスルームへ行ってしまった。
 「……経一と喧嘩でもしたかな。それとも女の子と」
 取り散らかったままの彼女の鞄を眺めながら独りごちた。とにかく、予想していた事態とは違っていたようで、少し安心した。落ち着いたら久しぶりに二人でいろいろ話すのもいいかもしれない。病魔のことは置いておいて、最近どんなふうに過ごしているのかとか、そういうことを。
 毛布をもう一枚出そうと思って、クローゼットを開けたとき、携帯が鳴った。画面を見ると案の定、経一からだった。電話の向こうで慌てている様子を思い浮かべたら、なんだかおかしくなって、少し笑いながら通話ボタンを押した。
 「もしもし」
 「逸人、鈍は、鈍はそっちに行ってるか」
 「来てるよ」
 「……そう、そうか、よかった……あいつ、大丈夫か」
 「……お風呂入ってるよ」
 「そうか」
 経一の声は妙に緊張した響きを持っていた。
 「……なんだよ、そんな慌てて、喧嘩でもしたのか」
 「なにも聞いてないのか」
 「来るなりなにも言わないでお風呂行っちゃったよ」
 「……言わねえか、そりゃ、そうだな、そうだよな、ああ……」
 「……おい、どうしたんだよ」
 経一が苦しげな呻き声を漏らすのを聞いてようやく、これは軽い喧嘩みたいなことじゃないようだと気づいた。彼は混乱した様子で、何度もつっかえながら話した。鈍が女の人と会ってきた後で、ひとりになりたがっていたのに、経一はさみしくて、どうしてもひとりで眠ることができずに無理を言ってしまった、そのうちに、つい――気がついたときには鈍に殴られていて――怯えきった顔をされて――。
 「……いいか、事情はどうあれ、嫌がってる相手に無理強いするのは、強姦なんだから」
 強姦、という言葉を聞いた瞬間に経一はひっと息を飲んだ。
 「そ、そんなつもりじゃ」
 「どういうつもりでも、お前の巨体でのしかかられたら、そりゃ、怖いよ」
 「ど、どうしよう、おれ、どうすりゃ」
 「とりあえず落ち着け、取り乱してもしょうがないだろう」
 「う、うん」
 「……こういうことは、時間を置くよりほかないよ、すぐにどうこうできることでもないんだから」
 「鈍、怒ってたか」
 「怒ってる様子だったよ」
 「……病院行って、帰ってきたら、鈍、もういなかったんだ」
 「―」
 「俺、自分のことでいっぱいいっぱいで、ろくに話もできてなくて、だから、」
 「……お前、病院行くような怪我したのか」
 「全然大したことねえよ、俺は、縫わなくていいって言われたしよ……それより、鈍は、どうなんだよ」
 「……お風呂から上がってきたら、様子を見て、話をしてみるよ。ともかく、うちにいる間は、僕がついてるから」
 「……う、うん」
 「折を見て連絡するから、お前も、ちゃんと休んでくれ。怪我悪くしないようにするんだぞ」
 「……分かった。ごめん」
 「言いっこなしだよ。僕だってお前達にはさんざん世話になってるんだから」
 「鈍に、ほんとうに悪かったって、伝えておいてくれ……言ってどうなるもんでも、ないかもしんねえけど」
 経一はその後も、ごめん、ごめんな、と、僕への分と鈍への分の謝罪を何度も繰り返して、電話を切った。話を終えて、僕は思わず長い溜息をついていた。事態は思った以上に深刻なようだった。経一にされたことで、鈍がどういうショックを受けたのかは、正直、僕には想像しようのないことだと思った。だとしても、彼女がここへ来たということは、なにがしか僕の助けを求めているということだ。
 (僕が動揺していてもしかたがないな。しっかりしなきゃ)
 そう思って、携帯をテーブルに置き、立ち上がった。クローゼットから毛布を出して、それからお茶でも淹れようと台所へ向かったとき、ふと、気づいた。
 鈍がバスルームへ行ってから、もう結構な時間が経っているのに、彼女が戻ってくる気配がない。それだけならまだしも、シャワーの音もボイラーの音も、ドライヤーの音も聞こえてこなかった。奇妙にしんとしている。急に心配になって、バスルームの前まで行き、軽く扉をノックしてみた。
 「……鈍、大丈夫かい」
 息の詰まるような長い沈黙の後に、いつひと、と一言、弱々しい声があった。どきりとした。ごめん、開けるよ。そう言ってドアノブを回し、そっと扉を開いた。
 「―鈍」
 洗面台の下に、力の抜けきった様子でぺたりと座り込む鈍の姿があった。乾ききらない髪のまま、ナイトシャツを乱雑に羽織って俯いていた。しゃがんで表情を窺うと、彼女は呆然とした顔で、両目から大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。ボタンを掛け違えた襟元から、傷跡のように赤く痛々しい鬱血が覗いていた。
不用意に触れることさえためらわれたので、戸棚から大判のバスタオルを出して、鈍の体を頭からそっと包んだ。それからタオル越しに軽く肩を撫でて、言った。
 「……風邪をひくよ。部屋に戻ろう」
 「……けいいち、を」
 「経一からはさっき連絡があったよ。話は聞いた。心配しなくていい」
 「経一を、ここのうちへ、おいて」
 涙と一緒に言葉をぽろぽろとこぼすようにして、鈍は喋った。ひどく苦しそうだった。