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【サンプル】【大人組】世界でいちばん遠い場所へ

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 「……つらかったろう、いまは、なにも余計なこと考えなくていいから」
 「ちがうの」
 鈍は激しくかぶりを振った。
 「ちがう、わたし、殴ったの、時計で……こ、声が、ちゃんと、出なかっ、……から、まくらもと、手、のばして……」
 「……」
 「た、叩いたら、目のところの、傷、割れちゃって、血がいっぱい出て」
 「……経一は、病院行ってきたって、大したことなかったって、言ってたよ。あいつ頑丈だろう、そのくらい、すぐ治るさ」
 「なにか、まちがえたら、目に当たってたかもしれない」
 「そんなこと経一は気にしていないよ、怖い思いさせたのはあいつのほうなんだから」
 「経一は、さみしかったの、とてもさみしそうだったのよ……わたし、わかってたの、なのに」
 「あいつはお前に謝りたいって何度も言っていたよ。お前が気にするようなことじゃないんだよ」
 「ちがうの、だめなのよ、もう、だめなの……」
 鈍はいっそう肩を震わせて、体を包むタオルの端で涙を拭った。そうして、俯いたまま、振り絞るように言った。
 「……わたしは、きっと、あんたたちを憎んでるのよ」
 「―」
 「どうしようもないことばかりを、憎んで、うらんで、ゆるせなくて……ずっと、そうなんだわ……」
 「――鈍」
 頭を殴られたような気持ちがしていた。彼女が僕に向かって口にしたたくさんのこと、それ以上に、言葉にしようもなく耐えていたことが、数え切れないほどあるのだと、今更になって思っていた。 
 「……またいつひどいことするかわからない」
 「鈍、」
 「だから、もうだめなの、もういっしょにいられない……」
 「鈍、お前はやさしい人だよ、それは僕らが一番わかってる。憎んでるなんてことあるもんか」
 「……あんたたちが、ふたりでいっしょにいれば、きっともうさみしくなんかないわ。わたしはどこか遠いところへ行くから」
 「よしてくれ」
 僕は思わず声を荒げていた。自分の吐く息がかすかに震えているのが分かった。
 「よせよ、誰もお前のこと、怒ってなんかいないんだ」
 「傷つけたわ」
 「傷ついてない」
 傷ついてなんかいないんだよ、と念を押すように言うと、鈍はタオルを握りしめて、溜息をつくように力なく笑った。
 「……好きな、ひとを、好きでいたかったの……誰にも、傷ついてほしくなかったの、それだけなのに、どうして」
 「鈍」
 「わたしは頭がおかしいんだわ」
 「鈍!」
 僕はタオル越しに鈍を抱き締めた。彼女の体がびくりと震えるのが分かった。怖がらせないように腕をゆるめて、頭を何度も撫でた。
 「……お前が、頭がおかしいっていうんなら、僕らみんなそうだよ……なあ、今まで、ずっといっしょにいたじゃないか。なにがあっても、僕ら、いっしょだったじゃないか」
 「……」
 「傷ついたのは、お前なんだ、だから、ここで休んでいればいいんだ。お前がどこかへ行くことなんてないんだ」
 僕は無我夢中で喋っていた。こわばった鈍の体が、撫でるたびに、少しずつ力が抜けて、緩んでいくのが分かった。
 「僕らはずっといっしょにいられるんだ、これからだって……」
 「……」
 「……もういっしょにいられないなんて、さみしいこと言うのは、よしてくれ」
 「……」
 鈍が、そっと顔を上げて、涙のたまった瞳をまっすぐにこちらへ向けた。口を開けて、なにかひとこと言いかけた。
 「――、」
 そのときだった。
 突然、鈍の瞳から光がふっと消えた。まるで機械人形の電気が切れたように、彼女の顔はいっさいの表情をなくした。そのまま全身の力が抜けて、するりと僕の腕の中に崩れ落ちた。
 「鈍」
 弛緩した体を抱き起こした。ショックで気絶したのだろうと最初は思った。けれどすぐに、なにかがおかしい、と気づいた。表情のない真っ白な顔は、眠っていると言うより、人形か、死んだ人みたいだった。
 「にぶ――」
 言い掛けて僕は、もっと大きな異変に気がついた。彼女の肩を支える自分の手。ひび割れがなくなって、血の通った、明るい肌の色をしていた。
 心臓が早鐘のように打ち出した。
 鈍の体をそっと床に横たえて、立ち上がり、おそるおそる、洗面台の鏡を覗いた。
 瞬間、全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。真っ黒な髪。ひび割れひとつない顔。
 「……冷血」
 吐き気をこらえながら呼びかけた。
 「冷血!」
 『騒がしい奴だ』
 鏡の中の自分の姿がゆらりと揺れて、白い髪にひび割れた肌、顔の中に深い暗闇をたたえた、病魔の姿が浮かんできた。
 「彼女になにをした」
 『はん、なにをした、だって?』
 冷血は呆れきった目で僕を眺めた。
 『自分のやったことも分かっていないのか。全くめでたい奴だ』 
 「自分の……?」
 『ああ、そうだよ。お前が俺に、そいつの感情を食えと言ったから、食ったんじゃないか。それだけだ。いいか、』
 僕は目眩を感じて洗面台に腕をついた。ついさっきまでの記憶がひどくおぼろげだった。僕は必死だった、無我夢中だったんだ、鈍を止めようとして、必死で、それで、なにを?
 『――お前が、俺に、そいつの負の感情を、みんな食わせたんだよ』