Fly me to the moon
深夜十二時を回ったころ、弥生と皐月は揃って卯月法律事務所のビルを出た。
建物の外に出た途端、ふわりと温い風が頬を撫でた感触に、目を細める。それほど飲んだつもりはなかったが、アルコールでわずかに火照った肌には心地よくて、なぜだか口元が自然とほころんだ。
やはり少しだけ酔っているのかもしれない。
弟が一緒のときは決して飲み過ごさないように気をつけているけれど、今夜は久しぶりにいい気分だった。その弟の卯月はといえば、法律事務所の二階にある自室のベッドで酔いつぶれたままぐっすり眠っている。
いつもは眼鏡とスーツでかっちり身を固めている卯月だが、部屋を出る前に見た寝顔はあどけなく無防備で、まだ共に寝起きしていたころの幼さを彷彿とさせた。
そんなことを思い出したら、一人部屋に残してきたのが急に心細く思えてビルの窓を仰ぎ見ると、傍らの人影がくすりと笑った。
「心配しなくても大丈夫だよ」
「皐月くん」
「潰れるの早かったけど、大して飲んでないし、寝不足だっただけだと思うよ。ここのところ、忙しくてピリピリしてて見てられなかったもんね〜。これでようやくぐっすり眠れるんじゃないかな」
皐月の言うとおり、ここしばらくの卯月は、自分の試験勉強とは別に仕事の案件が立て込んでいて、非常に忙しくしていたのだ。食事の差し入れで顔を出しても、あまり話をする余裕もないようで、あとで食べるから、と少しすまなそうに言われてしまえば弥生もそれ以上何も言えず、大人しく帰るしかなかった。
しかしその案件もようやく先日ひと段落し、それを聞きつけた皐月が、パーッとやって卯月を労おうと言い出したのが今夜の宴だった。
「そうだね……。今日はひさしぶりに楽しそうな卯月を見られて、僕もホッとしたよ」
「毒舌の方も絶好調だったけどね〜。まあでも、それでこそうーちゃんって感じか」
苦笑して肩を竦める皐月に、弥生もくすりと笑う。
今夜の皐月は、酔っぱらった卯月に散々絡まれる役回りだった。本人もそうなることを覚悟してきていたのだろう。時々混ぜっ返しながらも、素直に笑って聞いていた。
それが皐月の甘やかし方であり、卯月の甘え方なのだ。自分に対するときとは違う弟の顔に、大人になった今でも少しだけ妬いてしまう。我ながら勝手な話だ。
「それじゃあ、今夜はありがとう。おやすみ、皐月くん」
そう言って弥生が隣の自分の家へ入ろうと、勝手口へ続く門扉に手をかけたとき、慌てたように皐月が弥生の名前を呼んだ。
きょとんとして弥生が振り返ると、皐月は視線を泳がせながら、しどろもどろに言葉を探していた。
「ねえ、やよちゃん……。あのさ、少しだけ、夜の散歩に付き合ってくれない?」
「こんな時間から?」
弥生も皐月も明日は朝からいつも通りに仕事がある。さすがの弥生にも皐月の誘いが突拍子もなく思えて、驚いて瞬きをした。皐月も唐突だと自覚はしているようだったが、めげずに食い下がってきた。
「少しだけだよ。この辺をぐるっと回ってくるだけだから。だってさ、その、ほら………、すごく、月がきれいだし」
何とか理由を探そうとして、皐月は宙に泳がせた視線を夜空にぽっかりと浮かぶ満月へ向けた。
薄墨をうっすらとまとった朧の月は、それでも明るく春の夜を照らしていた。淡くぼんやりと満ちた月明かりを見上げれば言葉が吸い込まれていくようで、弥生はしばし口を閉ざした。確かに皐月の言う通り、やさしい静寂に包まれた、うつくしい月夜だった。
弥生の沈黙に焦れたのか、皐月が小首を傾げるようにして、不安そうにこちらをのぞき込む。
「どうしても……、だめ?」
平均以上の長身である弥生よりもさらに恵まれた体躯の持ち主であるにも関わらず、半分諦めながらしょんぼりとお伺いを立てる様子がまるで子犬のようで、思わず笑いがこみ上げ、目を眇めた。
「――――いいよ。じゃあ少しだけ、酔い醒ましに歩こうか」
うっかりそう答えてしまったのも、そんな彼の様子にほだされてしまったからなのかもしれない。あとは、そう。ほんのりと酔っていい気分だったから、すぐにこの夜を終わらせてしまうのが、少しだけ惜しく思えたのだ。
「マジで!? やった!」
寝静まった町内なので一応は声のトーンを落としながらも、今にも飛び上がりそうな喜びようだった。
「そんなにうれしい?」
ついそう訊ねると、当たり前じゃないかと言わんばかりの剣幕で皐月が訴えた。
「だって、二人きりなんて滅多にないじゃん!」
「そうだったかなぁ」
「そうなんだってば! やよちゃんはすぐそうやって惚けるんだからな〜」
「でも、ついこの前も一緒にお昼食べに行ったよ?」
弥生と卯月が昼ご飯を外に食べに行こうと話していたところにタイミングよく皐月が現れたので、一緒に近所の蕎麦屋へ行ったのが、ほんの数日前の出来事だ。
しかし、弥生の言い分を皐月はばっさりと切り捨てる。
「あれはうーちゃんも一緒だったじゃん! ついでに言うなら、その前も、その前の前も、うーちゃんが一緒でした!」
「卯月がいたらダメなの?」
その問いには、さすがに皐月も、うぐ、言葉を詰まらせた。
「ダメ……なわけじゃないけど、でも、二人きりとは違うよ。他の誰かがいたら、話せないことやできないこと、あるし」
「たとえば?」
何気ない弥生の問いに、皐月の表情が、すっと暗く強張る。
「…………やよちゃん。それを俺に言わせるのがどういうことか、わかって訊いてる?」
傷ついたと責めるようなその表情に、弥生は何も答えなかった。正確に言うのなら、答えるべき言葉を持っていなかった。
穏やかな表情のまま沈黙した弥生をじっと見つめたあと、やがて皐月は、普段の彼が決して見せることのない、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「――――やよちゃんって、ほんとひどいよね」
彼が弥生を詰る言葉は、身勝手だが、おそらく正しいのだろう。
だから弥生は、彼に素直に謝った。
「ごめんね」
「………悪いなんて、思ってないくせに」
きゅ、と泣き出しそうに唇を噛む。
思えば彼は、幼いころは泣き虫だったはずなのに、いつの間にか泣かない子供になっていた気がする。そしてその理由は、彼の強さではなく弱さなのだということを、弥生はぼんやりと感じていた。
大切な弟の親友で、自分にとっても大切な幼なじみ。
けれど今ここにあるものは、そのどれからも、少しずつはみ出してしまっている気がした。
そのあやふやな何かを抱え込もうとするから、皐月は傷つくのだろう。こんな自分の、心ない些細な言葉にさえ、他愛もなく心を揺らす。
「本当に悪いと思ってるよ。だから、こうして二人きりになるのを、素直にうれしいって言われると、どうしてなのかなあ、って思っちゃうんだ」
抱え込むのをやめてしまえばいいのに、と思うのは薄情すぎるのだろうか。おそらく自分は、あやふやなものを、あやふやなまま大切に思っているのだ。抱え込んで、形を与えることなど望んでいない。まして、そこに名前を与えることなど。
(………ごめんね)
彼の白い頬にかかる薄い琥珀色の髪に、そっと指をのばす。
建物の外に出た途端、ふわりと温い風が頬を撫でた感触に、目を細める。それほど飲んだつもりはなかったが、アルコールでわずかに火照った肌には心地よくて、なぜだか口元が自然とほころんだ。
やはり少しだけ酔っているのかもしれない。
弟が一緒のときは決して飲み過ごさないように気をつけているけれど、今夜は久しぶりにいい気分だった。その弟の卯月はといえば、法律事務所の二階にある自室のベッドで酔いつぶれたままぐっすり眠っている。
いつもは眼鏡とスーツでかっちり身を固めている卯月だが、部屋を出る前に見た寝顔はあどけなく無防備で、まだ共に寝起きしていたころの幼さを彷彿とさせた。
そんなことを思い出したら、一人部屋に残してきたのが急に心細く思えてビルの窓を仰ぎ見ると、傍らの人影がくすりと笑った。
「心配しなくても大丈夫だよ」
「皐月くん」
「潰れるの早かったけど、大して飲んでないし、寝不足だっただけだと思うよ。ここのところ、忙しくてピリピリしてて見てられなかったもんね〜。これでようやくぐっすり眠れるんじゃないかな」
皐月の言うとおり、ここしばらくの卯月は、自分の試験勉強とは別に仕事の案件が立て込んでいて、非常に忙しくしていたのだ。食事の差し入れで顔を出しても、あまり話をする余裕もないようで、あとで食べるから、と少しすまなそうに言われてしまえば弥生もそれ以上何も言えず、大人しく帰るしかなかった。
しかしその案件もようやく先日ひと段落し、それを聞きつけた皐月が、パーッとやって卯月を労おうと言い出したのが今夜の宴だった。
「そうだね……。今日はひさしぶりに楽しそうな卯月を見られて、僕もホッとしたよ」
「毒舌の方も絶好調だったけどね〜。まあでも、それでこそうーちゃんって感じか」
苦笑して肩を竦める皐月に、弥生もくすりと笑う。
今夜の皐月は、酔っぱらった卯月に散々絡まれる役回りだった。本人もそうなることを覚悟してきていたのだろう。時々混ぜっ返しながらも、素直に笑って聞いていた。
それが皐月の甘やかし方であり、卯月の甘え方なのだ。自分に対するときとは違う弟の顔に、大人になった今でも少しだけ妬いてしまう。我ながら勝手な話だ。
「それじゃあ、今夜はありがとう。おやすみ、皐月くん」
そう言って弥生が隣の自分の家へ入ろうと、勝手口へ続く門扉に手をかけたとき、慌てたように皐月が弥生の名前を呼んだ。
きょとんとして弥生が振り返ると、皐月は視線を泳がせながら、しどろもどろに言葉を探していた。
「ねえ、やよちゃん……。あのさ、少しだけ、夜の散歩に付き合ってくれない?」
「こんな時間から?」
弥生も皐月も明日は朝からいつも通りに仕事がある。さすがの弥生にも皐月の誘いが突拍子もなく思えて、驚いて瞬きをした。皐月も唐突だと自覚はしているようだったが、めげずに食い下がってきた。
「少しだけだよ。この辺をぐるっと回ってくるだけだから。だってさ、その、ほら………、すごく、月がきれいだし」
何とか理由を探そうとして、皐月は宙に泳がせた視線を夜空にぽっかりと浮かぶ満月へ向けた。
薄墨をうっすらとまとった朧の月は、それでも明るく春の夜を照らしていた。淡くぼんやりと満ちた月明かりを見上げれば言葉が吸い込まれていくようで、弥生はしばし口を閉ざした。確かに皐月の言う通り、やさしい静寂に包まれた、うつくしい月夜だった。
弥生の沈黙に焦れたのか、皐月が小首を傾げるようにして、不安そうにこちらをのぞき込む。
「どうしても……、だめ?」
平均以上の長身である弥生よりもさらに恵まれた体躯の持ち主であるにも関わらず、半分諦めながらしょんぼりとお伺いを立てる様子がまるで子犬のようで、思わず笑いがこみ上げ、目を眇めた。
「――――いいよ。じゃあ少しだけ、酔い醒ましに歩こうか」
うっかりそう答えてしまったのも、そんな彼の様子にほだされてしまったからなのかもしれない。あとは、そう。ほんのりと酔っていい気分だったから、すぐにこの夜を終わらせてしまうのが、少しだけ惜しく思えたのだ。
「マジで!? やった!」
寝静まった町内なので一応は声のトーンを落としながらも、今にも飛び上がりそうな喜びようだった。
「そんなにうれしい?」
ついそう訊ねると、当たり前じゃないかと言わんばかりの剣幕で皐月が訴えた。
「だって、二人きりなんて滅多にないじゃん!」
「そうだったかなぁ」
「そうなんだってば! やよちゃんはすぐそうやって惚けるんだからな〜」
「でも、ついこの前も一緒にお昼食べに行ったよ?」
弥生と卯月が昼ご飯を外に食べに行こうと話していたところにタイミングよく皐月が現れたので、一緒に近所の蕎麦屋へ行ったのが、ほんの数日前の出来事だ。
しかし、弥生の言い分を皐月はばっさりと切り捨てる。
「あれはうーちゃんも一緒だったじゃん! ついでに言うなら、その前も、その前の前も、うーちゃんが一緒でした!」
「卯月がいたらダメなの?」
その問いには、さすがに皐月も、うぐ、言葉を詰まらせた。
「ダメ……なわけじゃないけど、でも、二人きりとは違うよ。他の誰かがいたら、話せないことやできないこと、あるし」
「たとえば?」
何気ない弥生の問いに、皐月の表情が、すっと暗く強張る。
「…………やよちゃん。それを俺に言わせるのがどういうことか、わかって訊いてる?」
傷ついたと責めるようなその表情に、弥生は何も答えなかった。正確に言うのなら、答えるべき言葉を持っていなかった。
穏やかな表情のまま沈黙した弥生をじっと見つめたあと、やがて皐月は、普段の彼が決して見せることのない、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「――――やよちゃんって、ほんとひどいよね」
彼が弥生を詰る言葉は、身勝手だが、おそらく正しいのだろう。
だから弥生は、彼に素直に謝った。
「ごめんね」
「………悪いなんて、思ってないくせに」
きゅ、と泣き出しそうに唇を噛む。
思えば彼は、幼いころは泣き虫だったはずなのに、いつの間にか泣かない子供になっていた気がする。そしてその理由は、彼の強さではなく弱さなのだということを、弥生はぼんやりと感じていた。
大切な弟の親友で、自分にとっても大切な幼なじみ。
けれど今ここにあるものは、そのどれからも、少しずつはみ出してしまっている気がした。
そのあやふやな何かを抱え込もうとするから、皐月は傷つくのだろう。こんな自分の、心ない些細な言葉にさえ、他愛もなく心を揺らす。
「本当に悪いと思ってるよ。だから、こうして二人きりになるのを、素直にうれしいって言われると、どうしてなのかなあ、って思っちゃうんだ」
抱え込むのをやめてしまえばいいのに、と思うのは薄情すぎるのだろうか。おそらく自分は、あやふやなものを、あやふやなまま大切に思っているのだ。抱え込んで、形を与えることなど望んでいない。まして、そこに名前を与えることなど。
(………ごめんね)
彼の白い頬にかかる薄い琥珀色の髪に、そっと指をのばす。
作品名:Fly me to the moon 作家名:あらた