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Fly me to the moon

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 爪先に、触れていない彼の温度を感じる。錯覚なのかもしれない。しかし、彼には残酷なこの距離こそがいとしいのだと言えば、やはり泣かせてしまうのだろうか。
「理由なんか、俺の方が知りたいよ」
 痛みをこらえるように、彼の淡い紫の瞳がうるむ。それはまるで、きらきらと音を立てて光る、星の瞬きにも似ていた。
 とても美しいけれど、仰ぎ見ることしか叶わぬ光だ。
「それでも……、今のやよちゃんは、俺だけのやよちゃんだもの」
掠れるような声で低くささやくと、皐月は目蓋を伏せ、弥生の掌に頭をすり寄せた。
弥生は自分の指先に触れるやわらかな感触に一瞬強張り、だがすぐに我に返ると、そっと彼の頭を撫でた。やさしく、やさしく、何度でも。抱え込むばかりで傷つきやすい彼の、わずかな涙がこぼれて乾くまでの間。弥生はやわらかな髪を梳きながら、抱きかかえるように、彼の頭を撫でてやった。
 そんなことで何かが埋まるわけではないと知っている。いつだってこの体を動かすのは、側にいる誰かの感情なのだ。からっぽの器に流れ込むものだけが、ここにいるための理由を与えてくれる。
 やがて皐月が、ぽつりと呟いた。
「………ごめんね」
かすかに震える声に、弥生は撫でていた手を止める。
「――――どうして皐月くんが謝るの?」
「自分勝手なことばっかり言っちゃった……。ほんと、ごめん」
 不謹慎とは思いながらも、それを聞いた弥生は声を立てず笑った。
「気にしてないよ、本当に。それよりも歩きながら話そうか。俯いたままじゃ、せっかくのお月様も見られないしね」
 そう言って促すと、皐月は徐に顔を上げ、こちらを見つめ返す。甘えたな泣きべそ顔は、意気地なしだけれど、したたかだった。そして自分は、彼のそんなところに甘えているのかもしれない、とも思う。
「ねえ、皐月くん。手を、つなごうか」
 思いつきのように言って、いたずらに彼の手を取る。
 指を絡めて握りしめれば、すぐ側で皐月が息を詰める音が聞こえた。
「二人きりじゃないとできないことって、こういうことかな、って思って」
 顔を真っ赤にして、ぱくぱくと息をするのもままならない動揺ぶりに、見ているだけのこっちまで息が苦しくなりそうだな、とおかしくなる。
「…………ずるい。こんなの反則だよ……」
「あんまりうれしくなかった?」
 きょとんと小首を傾げれば、すかさず猛然と反論された。
「うれしすぎて死にそうになってる自分のお手軽さにうんざりしてるとこだよ! ………あーもー、何か泣けてきた……」
 がっくりと項垂れながらぼやいている皐月の手が、弥生の手を握りしめる。目に見えない何かではなく、今の自分たちは確かに繋がっているのだとふいに実感し、同時に遠くなってしまった思い出が脳裏をよぎった。
(………こうしておけば、見失うこともなかったのかな)
 目に見えずとも人と人とを繋ぐものを、きっと自分はどこかで信じていないのだろう。だからこんな、子ども染みたことを考えてしまう。
「やよちゃん?」
 名を呼ばれ、意識は今へと立ち戻る。どこか不安そうにこちらを覗き込む皐月を見つめ、弥生はにっこりとやさしく微笑み返した。
「今の皐月くんは僕だけのものだってことを、ちょっとだけ、確かめてみたかったのかも」
 嘯いたその言葉に果たしてどれほどの真実が含まれているのかは、それを口にした弥生にもわからなかった。
「それに、ほら………。月がきれいだからね」
 そして見上げた夜空には、薄紗を剥いだ真珠のような月が、静かな光を湛えてかがやいていた。
作品名:Fly me to the moon 作家名:あらた