淡い花弁の行末に殉じて
ぱたぱたと、ルキアのたてる足音が長い廊下の隅から隅へと軽やかに転がっている。時折止まり、しゅん、と障子が桟を滑る音がしたかと思うと、再びしゅん、ぱたん、と音を立ててぱたぱた走り出す音が続く。使用人の殆ど出歩かない広すぎる屋敷の一角を一頻り駆け回った後、その音はすっかり途方に暮れたものへと趣を変えた。
「兄様はいったい、どこへ行かれたのだ…」
ルキアは腕を組みうなり声を上げて首を傾げた。縁側の縁に座り込みながら、ふう、と息を吐く。
ぐるりと首を巡らせるが、やはりどの部屋からも白哉の白い斬り付けるような気配は感じられない。
ルキアが白哉を探しているのは、恋次に頼まれたからであった。なんでも梅の木ばかりが生えている一帯があり、花の蕾が綻び始めているのだとか。満開になるのを待てばよいものを、とルキアは思うのだが、恋次も部下たちも、そしてどこからか聞きつけてやってきた京楽たちも、酒盛りがしたくてたまらないらしい。ちょうど話が盛り上がっている場に居合わせたルキアの背中をぽんと叩いて、隊長にも声をお掛けしろ、と横柄にルキアを小間使いのように扱った恋次に蹴りを入れた後ろで、隊長という言葉にひぃ、と悲鳴を上げた隊士が可笑しくてルキアは失笑した。
あの隊士の顔は見ものであったと肩を震わせて、そういえば、と思い返す。
ルキアはこの離れの屋敷に出向く前、白哉付きの従者である信恒に白哉の居場所を尋ねていた。信恒は離れにお出ででしょうと答えた後、少しの間遠くを見つめるような顔をして、それから不思議そうな顔のルキアに行ってみなされと残して去っていったのだった。
信恒が何を思ったのか、分からないわけではなかった。この時期になると、朽木家の、殊更白哉に近い人間たちは、白哉のことを思うとき一様に同じ顔をする。
その要因となっている人の名を口にして、ルキアはぶらつかせている足先を見つめる。
何十年か昔には、この庭の見える縁側に同じように座り込んで白哉と語らっていた女性が居たのだ。それは白哉の妻であった人で、ルキアの実の姉である。そのことを思うと、不思議としか言いようの無い感情が胸を占めるのだった。暖かいような、少し寒いような、陽が翳った後の陽だまりであった場所のような、はっきりとしない感情だった。
俯くルキアの視界の端を、何かがふよふよと泳いでいった。つられるように顔を上げてそれが薄い色合いの花びらだと気づく。
はっとして、ルキアは少し離れたところにある履物に慌てて足先を押し込み、細やかな砂利の敷き詰められた庭を駆けた。
朽木家の離れを覆うように広がる優美な庭には梅の木が植わっている。手入れされ、大事に整えられ、その梅の木は毎年同じ時期に花を咲かせる。白哉はきっと、そこに居るのだろう。
慌てて駆けたせいで乱れた呼吸を整え、ルキアは数歩の距離の先にある兄の背中を眺めた。
少し上向いて幾つか花開いた梅の木を見ている白哉は、いつにも増して静けさが耳に痛いような気配をしていた。声を掛けようとして口を開くが、音にならず言葉は喉に引っかかった。兄が何を考えているのかルキアは悟れたためしがない。毎年花を咲かせる梅の木を見上げ、思い描いているのは奥方の顔だろうと思う。けれども、白哉の背中には静寂ばかりが張り付いていて、そこにあるのが懐古の感情なのか、寂寥なのか、哀憫なのか、後悔なのか、何一つ汲み取れなかった。また汲み取らせない人であるということも、ルキアは知ってはいたのだけれど。
伸ばそうとした手は宙で止まり、代わりに空を握りこんだ。一度だけ深呼吸する。触れられはしないが声の届く距離に兄はいるのだ。
「兄様」
兄を呼ばわった声は辺りに凛と響いた。けれども静寂という騒がしさに膜を張られているように感じるルキアは、自分がどんな調子で兄を呼んだのか判然としなかった。
それでも、何だ、と梅の木を眺めたまま簡潔に問うた白哉の声ははっきりと耳に届いて、ルキアは少しばかり安堵した。
「恋次からの伝言なのですが、良い場所を見つけたので今夜隊士たちと花見酒でもしませんか、と」
「…行かぬ」
「ですが京楽隊長や他の隊の方々も来られるそうです」
「では尚更行かぬ」
頑なな様子の白哉に、ルキアはふと足を進める。数歩歩んで、白哉の隣に並び、顔を見上げた。梅の木ではなく。踏みしめた足の下で砂利が擦れて鳴いた。
「なぜですか?」
問うた声音は伺う様子がありありと見て取れて、瞬間ルキアは恥じ入った。踏み込むべきではなかったのかもしれぬ、という後悔がじわりと心臓を絞めだして、兄を見ていたはずの視線はいたる所をうろついている。
白哉は顔だけルキアの方へ傾け、その様子を眺めてまた梅の木へと戻した。
「騒がしい場は好まぬ」
なにかを切り捨てるように白哉は呟いた。
それきり目を細めるようにして、梅の木に何かを透かし見ている兄の横顔をルキアは当惑と少しの悲しみとともに見つめた。
今白哉は何らかのものを確かに切り捨てたのだった。そしてその中に、至極当たり前のように自分は含まれているのだろうとルキアは感じている。朽木家の養子となってから、兄と呼んで良いはずの近しいはずの人物が身近であったことは一度もなかった。兄の意識がルキアだけに向けられたことなど、なかったのだろうと思っている。
やはり、自分のようなものが兄と呼べるようなお方ではないのだと、身分は元より他を隔絶する強さや矜持、気高さまでも、何一つとして近くに在れるものを持たないルキアは、ずっと踏み込み方が分からずにいる。それでもルキアが白哉を兄と呼び続けるのは、慕ってやまないからなのだ。
少し前までは、敬愛する兄が自分に向けるものが何なのか、何を求められているのか、それとも何も求められていないのか、量り切れずに対峙しては、色々なものに打ちのめされ落胆し怯えることが多かった。そのたびに兄妹という枷に縋り付くように兄様と呼び続けていた。
けれども、今は自分が妹であるということを無条件に許されているとそこだけは確信が持てる。その懐の内に僅かにでも自分の居座れるだけの部分があるのだと、知ることができたので。
ルキアはもう白哉と対峙しても取り乱したりはしない。ただ近づいた距離がどこまで許されるのか量りかね、ふと傍に寄りすぎたときに突き放されることが悲しくはあったが、傷ついたりはしない。理解できぬことに怯えたりはしない。
ただ兄が孤独であるのかと思うと、気がかりであるだけで。
沈み込んでいた思考の渦から脱してみると、すぐ傍に白哉が佇んでおり、ルキアは思わず瞠目した。
ルキア、と名を呼ばれる。
ルキアは、はい、と答えた。
「花見に、行くか?」
ぬばたまのように艶やかで静謐な双眸が、ひたりとルキアを見据えて返答を待っていた。
きっと白哉の言う花見とは、恋次の誘いとは別の思惑に準じたものであるはずだ。
ルキアにとっては唐突に過ぎるその問いかけに、やはり兄様はよく分からぬお方だと思い、だがそれでも別段問題は見当たらなかった。
なのでルキアの返答も初めから一つ以外には存在しない。
「はい、兄様、喜んで」
笑って首肯すれば、ルキアに据えられていた瞳は満足気に瞬いた。では来い、と白哉は踵を返す。
作品名:淡い花弁の行末に殉じて 作家名:ao