完璧な灰にはなれないけれど
ガリアからの使者がライであると知り、エリンシアはまず獅子王カイネギスの厚情に感謝した。
カイネギスのしたためた国書を携えての来訪であるから公的なものに違いはないが、ライの親しみやすい物腰は公務に緊張する体躯をやわらかく解きほぐし、硬直した頬をほころばせてくれる。ライのようにきめ細やかな、相手にそれと悟らせない気配りのできる者は、ラグズやベオクの区別なくかなり貴重なのではないだろうか。
「お会いできて嬉しいです。今日はありがとうございました、ライさま」
なんにせよ終始なごやかな雰囲気に包まれていた謁見はライの人柄に由るところが大きく、場所を移した客間で自ら用意した茶を勧めたあと、エリンシアは改めて礼を述べたのだった。
常に傍に侍ってくれているルキノとジョフレを室外に立たせての、短いながらもエリンシアに与えられたごく私的な時間だからこそできたことだ。祖国クリミアに帰還し王位を継いでから彼女が真っ先に気づいたのは、周囲に光る期待、好意、そして女王としての価値をはかろうとする視線の多さだった。
国民はかつてのクリミアを愛しているからこそエリンシアを笑顔で奉戴してくれたのだ。父の政治を、叔父の英邁さを知る彼らを落胆させてはならない。そう決意するエリンシアは、国を追われてから、そして今も自分に差しのべられている幾多の扶助の手のぬくもりを忘れたことはない。なかでも国を背負うという現実に怯えるエリンシアを励まし、ひとりで歩くのがおそろしいなら、とクリミアを慰撫するには情けないほど小さな震える手をとってくれた青年には、感謝も飽和する。
「こちらこそ、お時間を割いていただいてありがとうございました」
水色の耳を機嫌よく立てるラグズの青年は、にこにことよく笑う。
まるで正反対なのにどういうわけかライと青年とは馬が合い、彼らだけは出会ってすぐに種族の隔たりをすっかり取り去ってしまった。ライが異端なのか、彼が特別なのか、あるいはその両方なのかもエリンシアにはわからないが、いつも難しい顔をしている彼がライの軽口に年相応の反応を返すのを見たときはほっと安堵したものである。
ライの笑顔にそのときと似たような穏やかな感慨をもちつつ、エリンシアは彼の母国に意識を向ける。
「カイネギスさまはご健勝でしょうか。本当に、あの方にはご迷惑をかけどおしで」
「お気になさいませんよう。我らの王もエリンシア女王のことを気にかけておいでですよ。クリミアに一難あらばガリアは国を挙げて女王を援けると、何事にもおそれずぶつかってみればよいと、言伝を言いつかりました」
「そのお言葉にどれだけ励まされるか……エリンシアが恭悦していたと、どうかカイネギスさまにお伝えください」
白百合も恥らうような微笑である。ライは内心舌を巻いた。――もともと美しい顔立ちの少女だったが、まさかたった数ヶ月でこうも化けるとは。
ベオクの成長が速いのは知っていた、アイクなど食べたぶんだけ素直にすくすくと身長を伸ばしているし、耳から顎にかけての尖った輪郭に少年のあどけなさはもうない。先日会ったミストもすっかり女性らしくなって、驚きを混じえて彼女の容姿を称賛したときには力いっぱい腹を殴られた。あれは痛かった。
ライから見ればベオクは個人個人の変化が非常に目まぐるしい。そうしてあっという間に成長して老いていくくせに、個々をまとめて国家を造りだすと途端に動きが愚鈍になる。ベグニオン帝国などその最たるもので、ラグズの隷属は二百年近く、そこから反旗を翻しラグズの国家を認定させるまで八十年、たとえベオクがその事実を隠蔽したとしても、あまりにも、と言わざるをえない明確な停滞がテリウス史上にはある。ベオクとの和睦にははたしてどれほどの年月がかかることか。もっともこの問題は、午前中ライが見たままを信じれば意外とあっさり片がつきそうではある。そうであってほしいという期待を、カイネギス同様ライもまたエリンシアにそそいでいた。
「そうそう、気にするといえば。アイクもあなたのことを心配していましたよ」
「……アイクさまに、お会いになったのですか?」
「ええ。土まみれになって町の復興に手を貸していました。本当にひとつところにじっとしていられない奴ですね、あいつは」
大袈裟にかぶりを振るライの耳を、鈴の転がるような笑声がくすぐる。
「それがアイクさまのいいところではありませんか?」
「良し悪しでしょう、あいつの場合。……近頃あまりお顔をお見せになられないとか?」
「あ……」
みるみる萎んでしまった笑顔を惜しみつつも、ライは琥珀色の瞳から目を逸らさない。
カイネギスの親書は無事クリミア女王エリンシアの手に渡すことができた。ガリア国の使者としてのライの役目はすでに完了しており、すぐに城を発っても問題はなかったところをエリンシアの好意に甘えたのは、ひとえにこの問いを彼女に投げかけるためである。
「……ライさまは……我がクリミアについて、どこまで……?」
「トハの件でしたらアイクから聞かされました。他には、そうですね。あなたが国とアイクとを守ろうとしてくださっているらしいことくらいしか」
「……守れているのならばよいのですが」
エリンシアの唇が刻んだのは自嘲の笑みだった。ドレスの膝元で重ねられた手は硬く握りしめられ、ややもすると震えだしかねない緊張をはらむ。
「だめですね、私は。わかっているんです。こんなやりかたではアイクさまに軽蔑されてしまうと。けど他の方法がどうしても思いつかなくて」
「……あなたはよくなさっていますよ、女王陛下」
帝王学も満足に学んでいない娘の細い双肩に圧し掛かる、一度破壊された国家の重さがいかほどか、ライには想像もつかない。確実に国情は安定へと向かっているのだから、彼女の手腕が悪辣であるなどと誰が言えるだろう。賢明だった父王の血を遺志を、彼女は確かに継承している。
だから決してエリンシアに非があるわけではない。それでも、ライは言わずにおれなかった。
「だからこそ……もうあいつを、アイクを、解放してやってはいかがですか」
解放、という言葉を使ったライの真摯なまなざしから逃げる。驚愕はなかった。むしろ気のおけない友人のために配意する態度に淡い敬意すらもったほどで、自覚はなかったにしろエリンシア自身もどこかでこの瞬間がくることを理解していたのかもしれない。
伏せた視界にあるのは、相変わらず矮小な、震える手だ。
「やはり、アイクさまは私に呆れたのですね」
アイクはベグニオン帝国の風通しの悪い貴族政を嫌悪していた。先日の会議においてクリミアもベグニオンと大差ないこと、エリンシアの煮え切らない対応に憤りと落胆を抱いたに違いない。あのまっすぐな視線を受け止める勇気もなく、エリンシアはあれから何くれと自分に理由をつけてアイクと面会するのを避けていた。
彼から軽蔑されることが何よりもおそろしかった。
「いえ、自分が勝手に行動しているだけです。アイクは変わっていませんよ。あなたが即位した日から今まで、何ひとつ」
作品名:完璧な灰にはなれないけれど 作家名:yama