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絶望と希望のドア

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 それだけを簡単に確認して立ち上がると、同じように僕を引っ張り上げて立たせる。座り込んだままだと目立って仕方がないからだろうけど、その時の僕はそこまで頭が回っていなかった。そのまま自分の上着を脱ぐと、そのコートをがばっと僕にフードごとかぶせる。彼のトレードマークともいうべきファーコート。フードのファーが頬にあたってくすぐったかった。彼以外が視界に入らなくなった世界で、いま起きた出来事を辿る。
 ただ臨也さんが、僕を助けた、って事実が。あまりにも現実離れしすぎていて、夢の中の出来事のようで。
 だってそんなの、臨也さんらしくない。臨也さんって、誰がどんな目に遭おうと、それを遠くから笑って眺めていられるような人だ。それが人間だとでもいわんばかりに、楽しそうに。
 こんな臨也さん、見たことない。びっくりして、涙も止まった。

「あのねえ、帝人君、わかってないようだから言うけど!っていうか君くらいの高校生ってみんなそんな無茶すんの!?」

 言ってる内容がメチャクチャだ。臨也さんらしくないことの連続に、僕は答えることもできずにただそんな彼を見ていた。彼は自分の高校時代を思い出したのか、頭をがしがし掻きながら、「あー、してたか…」とちょっと自嘲気味に吐き出す。ふと視界に入ったその手のひらは擦りむけて、かすかに血が滲んでいた。

「人間はさぁ、あっけなく死ぬんだよ。こんなふうに、たったこれだけのことで血が出るし、車に轢かれればほぼ即死だ。弱くて脆い生き物なんだよ」
「…臨也さんは、そんな人間が好きなんじゃないんですか」
「誤解してるようだけど、別に俺は人間を死なせたいわけじゃないの。弱くて脆い、そういう要素はもちろん人間が好きだってことの中には入ってるけど、だから好きってわけじゃない」
「それなら、どうして」
「なんでわかんないの?」

 逆に質問を返された。体を離して、臨也さんはじっと僕の目を見る。両肩を支えられる力が強くて痛かったけれど気にはならなかった。目を逸らすことも許されずに、僕はただ視線を返すだけで、
 結局、観念したように小さく、彼は呟いた。

「…俺だって、人間なんだよ。恋人が轢かれそうになっているのを見て見過ごすことなんかできないし、「好きでした」って過去形で言われてフラれてもすぐに納得なんかできやしない」
「…え?」
「勿論、いつもの俺なら誰が轢かれようが見てるだけだけど。俺は神様じゃないから死にそうになってる奴を助けたりしないし、かといって悪魔でもないからそれに追い打ちをかけたりする気もない。…なにその何か言いたげな目。…ともかく、」

 一旦言葉を区切って、臨也さんは僕の両肩から手を離した。そして、すっと差し出す。あの時と同じように、形の良い骨張った指が、僕に伸ばされた。

「相手が君なら話は別だ。だってそうだろう?君は俺の特別なんだから」
「…う、そ」
「嘘なもんか。君が望んだんだ、俺に捕らわれることを」
「だって、あの時臨也さんは、僕のことなんか」
「好きだと思ってるのが君だけだなんて、一言でも俺が言ったかい?…まあ、逆に何も言わなかったのも問題だったのかもしれないけど」

 彼にしては珍しく、すこし反省するような素振りを見せて、それから、

「選ばせてあげるって言っただろ?あれはね、まだ君にも逃げ道があった、ってことなんだよ」
「逃げ道?」
「この手を取ればもうこれから先、俺から逃がしてあげない。そういう意味」

 囚われているのは──、
 彼を求めているのは、最初から、自分だけだと思っていた。自分が彼にとって特別になりえるなんて、思いもしなかったんだ。
 賭けだったなんていったら、臨也さんは怒るかな。今思えば、あんなに普通の人間みたいにくるくるかわる表情、なかなか見れるものじゃない。つまりは、そういうこと。
 僕はちゃんと望まれて、彼の傍にいたんだ。後ろから追いかけるだけじゃなくて、ちゃんと隣に立ってよかったんだ。変な負い目なんか持たずに。
 ほっとしたら体の力が抜けそうになった。そんな僕の肩を、臨也さんは軽く片手で支えて、それからもう片方の手を僕の頬に滑らせると、長い指でつっと涙の痕をなぞった。変な快感が全身を襲う。そんな僕を見て、臨也さんは楽しそうに笑った。いつもの真意の読めない笑顔じゃなくて、本当に心から楽しそうに。

「だからね。俺を選んだ以上、帝人君の全部は俺のモノなんだから。勝手に死ぬなんて許さないし、涙も」

 これも、俺のモノだよ、と、わからせるようにその痕に舌を這わせられる。フードで隠されていなかったら、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。思わずぎゅっと目をとじたら、また楽しそうな笑い声が聞こえた。

「これでも、今まで散々おとなしくしてたほうなんだよ。でももう、そんな必要ないね」

 好きでした、なんて言葉、二度と言わせないよ。
 最後の一言はあまりに小さくて、本当に彼の言葉だったのかはよくわからない。僕の頭がぼうっとしてたせいかもしれないし。
 幸せになれるわけがないという思いに、相変わらず変わりはなくて、報われるわけがないってことも、後々後悔するかもしれないってことも、変わってはいないんだけど、それでも相手が臨也さんだということを考えれば、あまり気にするほどのこともないのかな。
 絶望とたくさんの葛藤の中に見つけた、ほんの一筋の光は、人並の恋愛感情を僕が彼に教えてあげられた結果なんだろう。
 
 相変わらずの池袋の雑踏の中、手を引かれて新宿へ帰る帰り道。
 彼の匂いに包まれたコートの中で、僕は初めて彼を好きになった自分を赦すことができた。




作品名:絶望と希望のドア 作家名:和泉