怪物づかいの話
太陽が姿を消し夜の帳が落ちる夜。森の中の動物達もなりをひそめ、冷えた風が木々をぬって走る。
煌々とした月明かりの下、ふいにぽつりと影が落ちる。
左右に大きく広がるそれは一見鳥のようで、よく見るとその羽と思われるものが広がったマントだと気づくだろうが、月に近く地面より距離のある場所を飛ぶその生き物が、吸血鬼であることには誰も気づかないだろう。
人を嫌い、憎み、生き物という生き物が近寄ることはない吸血鬼という存在は、ごく普通に怪物たちの生活する環境でも異色のものであった。
バサリ。音を立てて地面に陰が伸びると、あたりの生物が息をひそめたように沈黙する。
「ここだね」
低い声が響き、黒い瞳が月明かりを反射して輝く。月の光をしても彼の目の色を闇から変化させることはできない。闇をまとい闇に生きる吸血鬼はまだ少年の姿をしても他とは異質な空気をまとっていた。
その吸血鬼の目が、獲物を見つけたように細まった。唇の端が僅かに上がる。
その瞳の先には吸血鬼の天敵ともいえる怪物づかいの家があった。
町から外れた森の中にある一軒屋。こじんまりとしたログハウスの周りには、自活しているらしい、これまた小さな畑があった。
吸血鬼は森から場所を移すとその家の前に足を運ぶ。
途端に、森の中の時間が動きはじめたように木々が鳴り、生き物の足音が聞こえてきた。
ログハウスに近寄ると、窓からは温かな炎の灯りが零れ、その周辺ではオレンジ色のかぼちゃが、手製なのだろうか情けない表情をして座っていた。
今日はハロウィン。
年に一度の祭りだ。
街中ではそれこそ家のてっぺんから床まで飾られ人が闇を忘れて練り歩いているというのに、この家はずいぶん静かだった。
そもそもここには家主以外の気配もないようだ。
ここの家主は怪物づかい。
吸血鬼にとっては敵のような存在だ。
現に吸血鬼――ヒバリンは一度彼と戦っている。
その時のことを思い出すと、胸が痛いやら苦しいやらどうにも感情が暴走しそうになってしまう。
思い出したくない、というわけでもなく、かといって考えてしまうわけでもない。ただ、ふとした瞬間に彼の顔が脳裏によぎり、胸が騒ぐのだ。
まるで悪い魔法使いの魔法にでもかかってしまったような症状にヒバリンはとうとう堪りかねてこうして彼の家を訪ねるという、自分らしくない行動をとってしまっていたのだった。
扉の前に立つと一呼吸おいてヒバリンは片手をノブに添えた。
傍の窓のから炎がみえる。ゆらりと揺れた炎が隠れると影が浮ぶ。特徴的な髪型を映した影にヒバリンの瞳がすっと細まった。
(――ツナ)
怪物づかいの名を胸の中で呼ぶと、胸の中からトクンとちいさく音が聞こえてきたように感じた。
ヒバリンの心と身体に傷をつけた少年。どうしても忘れられない人がすぐ傍にいる。そう感じると何故か戸惑ってしまう。
「トリック・オア・トリート」
突然、声がした。
「なんて……いえるわけないか」
思わず止めた息を吐き出すと、ヒバリンはノブに置いた手に視線を落とし改めて握った。
ギギィ――。
立て付けの悪い音がする。扉が開くと温かな空気が外に逃げ、奥の暖炉のオレンジ色が目に入り込んできた。
夜はもう人肌には冷えるのだろうか。元より体温が低く、感覚器官の薄い吸血鬼であるヒバリンは感じることがなかった。
「ななななに」
途端に今にも跳びあがりそうな声が中から響いた。
こういう場合は、誰ではないのだろうかと思いながらヒバリンは扉を後ろ手に閉じた。
「お邪魔するよ」
「ぎゃぁ!」
声をかけると間髪いれず悲鳴があがり、逃げようとするようにツナが壁際に身体を寄せた。
「ななななんで、ヒバリン!?」
「……」
何故? そう訊かれるとは思っていなかった。
「なんだっていいだろ」
「ううう家には何もないですから!」
まるで押し入り強盗にあったような台詞がツナの口からこぼれおちる。
「なにそれ……」
まさかそんな扱いを受けるとは思わなかった。そりゃ、歓迎されるとは思ってはいなかったが。
ヒバリンが目を細め不機嫌をあらわに睨む。
その視線に小刻みに震えていたツナの肩がさらに縮こまった。
「じゃ、じゃぁ、うちになんのようですか?」
「別に……――理由なんて」
「えっ」
「僕の勝手だろ!」
じっと睨むとツナが目をそらす。あからさまに視線を逸らされると面白くない。
ヒバリンはあっという間に距離を詰めるとツナの手を取った。手のひらに唇を当てる。
一瞬のこと。ツナは目を丸めるとまくし立てるように言った。
「おれをたべてもおいしくないですよ」
「――食べないよ」
「吸い殺してもおいしくないですよ」
「おいしいよ」
「えっ?」
困惑する瞳を覗き込むと、ヒバリンはツナの手に歯を立てた。
「ッ……!」
肉に食い込む鋭い牙にツナは声にならない悲鳴を上げた。
どくん、どくん、と大きく音を立て、ツナの体中の血が流れ込んでくる。
甘い。まるで果実のような甘さだ。血でにじんだ傷口をなぞるように舌で触れると、ツナの腰が逃げるように引け、そのまま尻餅をつく。
手を握ったままのヒバリンは、ツナに引かれて被さるように倒れこんだ。
パチパチッと薪の割れる音がする。
暖炉の前にも転がっているかぼちゃと同じ色の光がツナの横顔を照らし、炎の熱が頬を赤く染めた。
鼈甲飴色の瞳が恐怖に揺れ、ヒバリンを見上げた。
「ヒバリン?」
名前を呼ぶと唇の隙間から甘い吐息の香りがした。
「……黙って」
とても美味しそうな匂い。ヒバリンは引き寄せられるようにツナの唇を塞いだ。
触れた唇を震わせてツナが息をのむ。小さく開いたままの隙間に舌をもぐりこませると吐息ごと吸い寄せられるようで、口腔で縮こまったツナの舌に思わず自分のものを絡める。
直に伝わる人の体温に心臓が激しく音を立てる。
こんなにも熱いものだと思わなかった。
熱くて、柔らかくて、とても甘い。
絡み付く下からこぼれる唾液はこれまで飲んだどんな飲み物よりも甘く咽喉に染みてくる。
むさぼるように口腔に舌を這わせ、絡んだ舌の根をつくとくぐもった声がツナの咽喉から鳴った。
「……んっ」
苦しそうな声に胸がぎゅっと押しつぶされそうだ。
もっと泣かせたい。
本来もつ過虐心に胸がうずく。泣かせたい。泣いているところが見たい。もっと――、食べたい。
唇の上に未練を残し、舌先で舐めるように唇をなぞり下唇を食むと、そっと離れてツナを見下ろす。
睫毛を微震させたツナの目尻に涙が浮かんでいる。
「……ツナ」
名前を呼ぶと彼の瞼が上がった。開いた瞳は濡れていて、ツナが瞬きをすると、頬を伝って床に落ちた。じわりと木の板が色を濃く染めていく。
「どうして」
唇が戦慄いて、まだ涙の残った瞳が問う。
「ほしかったから」
無性に彼を食べたくなったのだ。香りに誘われたのだといいたくなったが、その響きは言い訳じみていて遣いたくなかった。
「君が食べたくなった」
「食べるって……」
怯えを浮かべた瞳がさらに恐怖を深め見つめてくる。
いったい自分はどんなに強欲で物欲しそうな顔をしているんだろう。