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日常の話

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鴉乃杜学園四階の教室にて。



生徒会から配布されたアンケートに黙々と回答を記入していた七代千馗が突然ふと手を止め、自分の頬を軽く擦り上げた。

「……」

壇燈治は、内心首を傾ける。
眼前の親友とは違い、真面目に取り組む気など全くない壇燈治は至極適当に早々と仕上げ(それでもかろうじて放棄してしまわなかったのはひとえに配布しに来た人間との関係が原因である)ただ何となくぼんやりとペンを走らせる七代の姿を観察していたのだが。
痒くて掻いた、という雰囲気でも無し、見覚えのあるようなないような。それは一種、やや不思議な所作である。今の仕草は一体何だったのだろう。
今しがた眼に映ったばかりの映像を脳裏で幾度か再生しつつ壇がそう考えていると、その視線に気付いたらしい七代が顔を上げ。そして、頬に在った自身の指をおもむろに引っ込めて元へ戻した。

「…………見てたのか」

そう呟く七代の顔には悪戯を咎められた子供のような、どこかばつの悪そうな表情が浮かんでいる。
その言葉に壇は、今度は内心ではなく実際に首を傾げてしまった。
確かに、見てはいたのだが。
しかし、言葉の通り壇は、それをただ見ただけである。
先刻の仕草が何だったのかということも、今この男の浮かべている表情の意味も、壇にはまるで判らぬままなのだが。

「なんか、都合でも悪かったのか?」

けれど、七代の表情から察するに、恐らく自分は今の所作を見ていない方が良かったのだろう。
判らないなりに何とかそれだけを予測しながら壇がそう返すと、七代は軽く息を落とし、いつも愛用している銀色のペンを指の上でくるりと廻した。

「…………わるい、っていうか……、」

七代の声音が曖昧に尾を引いている。
弾かれるようにしてくるりくるりと落ちずに廻り続けるペンの軌跡を眺め、全く器用なものだと半ば呆れつつも、壇は脳のあと半分でもってこの男がこんな風に言葉の断面を曖昧にしておくのは珍しい、と考えていた。
明言せずに人を煙に巻くことは多々あっても(尤もこの男がそうするのは大抵自身の本心に関わる時である)言葉自体をぼかしたりすることはほとんどなく、その内容がどんなことであれ小気味良くきれいに言い切るのが七代千馗という男の常であるはず、だったのだが。

「……………………まあ、お前に言ってもピンと来ないと思うんだけどさ」

一体どんな言葉が続くのだろうかとやや身構えた壇の眼前で、七代は何となく観念したように肩を竦めて見せ、おもてに淡い苦笑を滲ませながら自身の眼を指差した。

「眼鏡の時のさ、クセがついてんだよな」
「、………………クセ?」

その指先を追い、壇は示された七代の眼をじっと見詰めてみる。
秘法眼という、とても大仰な名のつけられた黒い色の虹彩。
この男が封札師としてのちからを振るう時、その黒い色にひどく形容し難いような煌めきがそこへ混じり込むことを、親友として相棒として最も近い処に身を置く壇は当然ようく知っている。けれど、地下に広がる洞などではなく明るい教室の中に在るこの男の眼は、ただのんびりと平穏に黒く鎮まっているばかりで。今こうして覗く限りでは、何ら特別なもののようには見えなかった。
壇の視界の中、その黒い眼が僅かに緩む。

「ずり落ちてきた眼鏡を指で押し上げる仕草、ってあるじゃない。壇きゅんは多分眼鏡かけたことないだろうから判んないかもだけど、多分見たことはあるだろ?」

そういえば、かの盗賊団参謀である男が頻繁にそうしていたような。
一番に浮かんで来た鹿島御霧の仕草を思いつつ、七代の言う通り今まで眼鏡をかけた経験のない壇はとりあえず頷いて応えた。
 
「あれはさ……俺だけなのかも知れないけど、もうクセになってんの。ずり落ちた時にだけ上げてるってわけじゃなくて、一定の頻度でただ自動的にやっちゃってる動作なの。なんというか……すごい説明しにくいんだけど、うーん、判るかなあ」
「……………………あー、まァ、実感は出来ねェけど、なんとなくは……」
「そう? ま、そういうわけでさ……とにかくそうすんのがくせになっちゃってるから、たまにさっきみたいに眼鏡をかけてない時でも出るんだよな。そのクセが」

壇は、首を傾げながら先刻見た七代の所作について思い起こしてみる。

「………………てことは、」

あの仕草はやはり、頬を掻いたわけではなく、

「そう」

理解の端に指が届きそうな壇の表情を見遣り、七代がひとつ頷いた。
おもてに滲んでいた苦笑が先刻よりも少し深くなる。

「ま、お前は信じられないかも知れないけど。眼鏡なんてかけてないってのに、今はコンタクトなのに、ただクセで…………俺はたまに、『ずれた眼鏡を直そう』としちゃう、ってわけ。顔には何にもないのにな」

そう説明し終えた七代は弄んでいたペンを停止させ、アンケートの記入を再開し始めた。

「ハタから見てるとかなりきもちわるいんだろうけどな。俺もそれはまあ判ってるんだけど、うん、クセだからな……まあその、とりあえず、しょうがない」

意図的に逸らされた視線は、もう壇の方を向こうとはしないようだ。

「、…………………」

インクが作り上げていくその規則正しい文字の羅列をじっと眼で追いながら、壇は発端となった先刻の所作とその意味、それからいま眼前に在る親友の様子を順に思い出し、見、そうして改めてそれらについて考えてみた。
眼鏡がそこに在るかのように、それを押し上げようとする仕草。
見ていた壇に対して言い掛けた言葉。浮かべていた表情。
自身の口から種明かしをせねばならなくなった胸中。
こちらからの視線を避けるように伏せた黒い眼に宿る感情の色。

「………………………………」

並べ直したそれらの事実から、壇はじんわりとようやく全てのことを理解した。
つまり。
つまりこの男は、自身のその不思議な(確かに眼鏡をかけたことのない壇からすれば大層不思議である)癖のことを。

「お前…………、」

親友の旋毛を見詰める壇の唇に、無意識の微笑が灯る。

「何やらせてもソツなくこなすしクセとかねェのかと思ってたけど……お前も結構、かわいいとこあんだな」

壇燈治といえば、複雑な風には出来ていない男である。
何故か、眼を瞠りながら驚いたように顔を上げている壇の親友、七代千馗とは違って。
その思考回路はおおよそ直線のみで構成されていて、そこには思考を何か別のものに変換させるような濾過機や一枚余計に何かをかぶせておくような機能は生憎と備わっていないのである。
だから、今こぼれ落ちた言葉も、ただそう感じたから、そう思ったからそのまま口にしただけのこと。他意も意図も、壇にとってそんなものは何ひとつ在りはしなかった、のだが。
この男は一体何をそんなに驚いているのだろう、と疑問に思ったその瞬間。頭頂部に存外強い衝撃を受け、壇は思わず体勢を崩してしまった。

「、ッてェ!?」

壇の方こそ余程驚きつつ斜め後方を振り返ると、そこには苛々と肩を怒らせて立つ飛坂巴の姿があった。
彼女の手に見えるのは数十枚はあろうかという白いプリントの束。もしや、あれで自分の頭をはたいたのだろうか。
作品名:日常の話 作家名:あや