ローズマリー・デイ
忘れてしまいたくないと思える大切なことは、ちゃんと憶えている……か。
日本のその言葉を、心の中で俺は何度も何度も復唱した。日本は、俺の眼が、あの頃と変わらぬように見えると言った。だから――……つまりは、そういう、ことだ。
どうしよう。嬉しくて、嬉しくて、たまらない気持ちがあふれて胸が、目が、熱い。
「イギリスさんの緑色の眼。とても、すてきです」
あのときのように日本が言った。
「お前のも……すごく、良いと思う」
俺が言うと、二人とも同時にくすくすと声を出して笑った。秘密ごとが可笑しくって思わず笑いあう子供みたいにして。なつかしくて、ひどい郷愁の念に胸を襲われながらも、それはとても爽快だった。
笑いがおさまると、日本は「さて、そろそろお庭の水まきをしませんと」と言い、しずかに立ち上がった。夏場は水やりを怠ると、すぐに萎びてしまいますから、と眉を下げながら。俺も自然と眉が下がって、「今日はお前に会えて、ほんとうによかった」と、なかばただの――安らかな――溜息のような調子で、呟いていた。なのでそれには日本は聞こえなかったふり(あるいは本当に聞こえなかったのかも)をして、日差しの中へ歩いてゆく。
そして庭用の突っ掛けを履いたところで軽く振り返り、言った。
「アメリカさんも、フランスさんも、――あなたのことを大切に思っているひとたちみんなが――あなたのことを、ちゃんと、憶えています。あなたと過ごした日々の輝きを」
――過ぎ去ってゆく日々の輝き。
「あ……、」
俺は、あ、と口を開けたまま、呆然としてしまった。燦々と降り注ぐ夏の陽光に、目が眩んだ。
なにか生温かいものが頬を伝っていったが、あまりにも熱い感触なのでそれは汗に違いなかった。汗が伝うのも仕方ない、こんなにも暑い夏の日では。そういえば、あまりの暑さで休んでいるのか、蝉も気付かぬうちに泣き止んでいた。家内を吹き抜ける風だけは清涼なのが、日本の家の不思議なところだ。
ちりん、と風鈴を揺らす夏の風。
「なあ、日本」
朝顔に如雨露で水をやる後ろ姿をしばらく眺めていたが、風鈴の澄んだ高い音で目を覚ますようにして、その背に向かって呼び掛けた。作業を続けたまま、はい、と返事をする日本。
「今日は泊まっていってもいいか? その……百年ぶりに」
おかしくなってしまうほど、はずかしさで顔が、体が熱くなっていた。内がわから燃えているみたいだ。ただでさえ目映い太陽が、この輝く世界を燃やしていて、あついのに。
日本はすぐには返事をしなかった。珍しいことだ。一瞬なにを言われたのかわからない、というふうに手を止め、数秒沈黙し、「あ……ああ、はい、もちろん。むしろ大歓迎です」としどろもどろに答えた。こちらを見ずに花の方を向いたままで。これもまた、日本にしては珍しい、由々しき事態と言っても過言ではない、ことだった。
きっと、そのすべらかな頬を、林檎のように赤くしているのだろう。
あの日の頬が赤かったのが、冬の寒さのせいだけではなかったことを、俺は知っている。
俺は自分の分の茶がまだ残っていることを思い出して、それを手に持ちながら庭に出た。つめたい水面が夏の日差しに燦めいて、心おどる美しさを放った。ごくり、ごくりと飲み干しつつ、日本の肩を抱き寄せる。おどろいて俺を見る日本の顔はとまどい半分、抵抗半分だったが、俺は無視して彼の頬に口付けた。麦茶のおかげで心地よく濡れたつめたい唇で触れたので、よけいに熱く感じられた。
目の前には、うすべに色や、すみれ色をした朝顔たちが、瑞々しく咲いている。