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ローズマリー・デイ

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 心とは裏腹に、ひどくやわらかな風がふわりふわり、頬をやさしく撫でてゆき、ちりん、と風鈴を高らかに鳴らした。ほぼ無意識にその音につられるようにして縁側を見やると、和服姿の小さな女の子がぽつり、美しい朝顔の庭に立ち尽くしたまま俺を見つめていて、そのまっすぐな視線に、思わず泣いてしまいたいような気持ちが込み上げてくる。

 日本には、もうあの子が見えていない。

「――そうやって日本は、すぐに忘れていくんだな」
 女の子を見つめたまま言った。夏の光がばかみたいに燦々と降り注ぐ、きれいな庭。
 その言葉に日本は、この日はじめて機嫌を損ねた。
「じゃあ、イギリスさんはすべて憶えていらっしゃるというのですか。アメリカさんを好きだったことも、フランスさんを好きだったことも」
 ちりん、ちりりん、と風鈴が狂ったように鳴り続けた。
「ああ」それからお前を好きだったことも。「憶えて、いるさ」
 大きく宝石のような目でこちらを窺う女の子に、そっと笑いかけてみせると、その子もふにゃりと笑ってくれた。嗚呼、俺は憶えているぞ。ちゃんと、見えているんだからな。
 俺には見える。新大陸を手にして心の高揚した自分――その大自然から俺が護ってやるのだと意気込んでいた――も見える、流行りのお洒落を教えてもらって照れくさかった自分――結局は自分らしさがいちばん大事なのだと教えられた――も見える、頬を林檎にした同盟国と握手を交わした自分――そうして俺は独りではなくなった――も、見えている。そのときの感動、感触、胸の痛さまで……。だから俺の目には妖精だって座敷童だって見えている。焼き付いている。ぜんぶ憶えてしまっている。憶えている。
 憶えている。
「なら私は、貴方の記憶をすべて消してしまいたい」
 ばっと視線を日本に戻した。心臓をきゅっと抓まれたような衝撃が走ったのだ。
「日本……?」
 どぎまぎして、すうっと体が涼しくなるのを感じた。夏の汗が一瞬で冷や汗に変わる。日本が、そんなことを言うなんて。
 日本は、悲愴な目をして俺をじっと見つめていた。苦しいのは俺の方だったはずなのに、その眼差しから、悲痛な叫びがどっと押し寄せてくるような気がして、ますます苦しくなってしまう。彼のその一言に、すべてがぎゅっと凝縮されていると感じた。普段は決して見ることのかなわぬ、おだやかな日本の内なるはげしさ、胸の熱さが。
 俺はそれをどう受け止めてやれば良いのかわからず、ばかみたいにもう一度、にほん、と名前を呼んだ。かなしいことに、俺はこんなことまで憶えている――俺たちはどんなに愛し合っていても、こんなふうに、いつまで経ってもぎこちなかった。困ったとき俺はいつもこうやって、途方に暮れて名前を呼ぶことしかできない、馬鹿だったのだ。
 俺たちは何ひとつ互いを理解してやれないまま、季節だけが過ぎて行った。西洋の島国、東洋の島国、お互いの片割れをようやく見つけたと思っていた。すべてがぴたりと嵌り合うようにできているみたいに、違っていて。お互いがいないとだめだとさえ思っていた。好きだった。とても好きだった。とても。
 この永遠に続くとも思われる沈黙を破ったのは、また、日本だった。
「……なんてね。私だって人のことは言えませんから」
 と言って笑った。諦めだったり哀しみだったりの、嫌な類の笑いではなかった。どういう意味か、俺が問う前に日本が席を立ったので、黙って続きの言葉を待つ。日本はうっすら微笑みを浮かべた穏やかな顔つきで、縁側まで歩き、夏の庭を眺めつつ流暢に話した。
「あれほど恐れていた欧米文化も、いざ開国してみると十年ほどで慣れてしまった私です。時間に流されやすいのだということは自覚しています……でも、忘れてしまいたくないと思える大切なことは、ちゃんと憶えているんですよ。確かに、時と共に薄れゆくのも事実ですが……それでも、ちゃんと、憶えています」
 俺は固唾を呑んでその様子を見つめた。斜め後ろから眺める日本の姿も、凛としてうつくしい。竹のように真っ直ぐでしなやかな背筋、己の庭園に投げかける眼差しのやわらかさ。きれいな横顔だと思った。
「座敷童さんのことだって――もう、目には見えなくなってしまったけれど。イギリスさんが“いる”と仰るのなら、たしかにそこにいらっしゃるのでしょう」
 と言って、にっこり笑った。驚くべきことに、その笑みはしっかりと、あの子の方へ向けられていたのだ。見えてはいないはずなのに。
 座敷童は照れてしまって、顔を赤くしたまま俯いた。
「イギリスさん。いま、私の目には、ちゃんと貴方が見えている」
 今度は俺を振り返り見て言った。そして、す、す、と布ずれの音だけを立てて歩み寄り、俺の手の甲の上に彼のちいさな掌をそっと重ねた。ふわり、と包み込むように触れるやさしい感触は、ぎゅっと握り締められるよりもむしろ、より切なさを感じるものだった。俺は、日本の濃やかな深い栗色の瞳を、ただ熱心に見つめた。いまの俺にもお前が見えているよ、と。
 それから日本は、今でもちゃんと見えています、と再び念押しするように言い、そして、
「貴方の綺麗な緑色の眼が、出逢った頃と変わらぬ輝きを持って、見えているのです」
 と言った。
作品名:ローズマリー・デイ 作家名:明治ミルク