世界を統べる者
その時だった。服の下で振動を感じ、首に掛けていた鎖を引っ張りだす。現れたのは掌にすっぽりと納まる懐中時計である。金色に縁取られた文字盤が淡く翠に光っていた。長針の指し示す時はタイムリミットの時間。スザクは懐中時計を胸に仕舞い込むと抱きあう二人に向かって歩き始める。
先に顔を上げたのは、皇帝である彼の人である。スザクに向け、ふわりと微笑む。アメジストの澄んだ瞳には涙が浮かんでいた。さらりと艶やかな黒髪が揺れると同時に胸が跳ねた。
(うわ……、まじでそっくりだ)
分かっていたことだが、それでも心を揺さぶられてしまう。それが嫌になるほどだ。
『ああ、もう時間切れのようだ』
「――ルルーシュ?」
『そんな泣きそうな顔をしてくれるな……。きっと、また会えるから。俺とお前で、出来なかったことはない。――そうだろ?』
微笑みと共に交わされた口づけはきっと確かな約束。スザクが虚空に向かって背を伸ばすと皇帝の姿は光の珠へと変化した。
そして掌におさまる。淡く紫に輝く光は彼の未来のものだ。
スザクは息を吐いた。悪逆皇帝と呼ばれた彼が消えたと同時に静寂が満ちる。すでに歪みは消え、この空間が元の世界に戻るのも時間の問題だろう。
「お兄様は?」
「あんたたちに見えなくなっただけだ。心配しなくてもちゃんとあの世に連れていくさ」
悪逆皇帝の姉が信じられないと怪訝に見つめてくる。
「貴様は何者だ? あやつのように番人とでも言うのか?」
眉顰め、彼女の視線が指し示す先――それは過去の番人に他ならない。消えていた弟と同じ顔をしているためか苦痛に顔を歪めている。妹を殺した男と同じ顔をしているのだ、平静ではいられないだろう。
淡い瞳の奥で様々な感情が浮かんでは消え――。湧き上がる感情は彼女を大いに揺さぶっている。苦渋に満ちたその横顔はすでに憎しみだけではない。
スザクは深く息を吐くと頭をかいた。まさか、己の正体についてまで問いかけられるとは予想の範囲外である。困ったと頭をかいても、誰も助けてはくれない。
「言っとくけど、あいつは別格だからな――」
親指で番人を指差し、囁く。すべての過去を管理できるものなど今まで存在しなかった。そう、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア以外には。
「で、俺はまあ、番人っていや番人だけど管轄は『死』
だ」
「死……?」
目を閉じた可憐な皇帝が問いかけてくる。
「おう、えーと、あんたたちの世界で言う『死神』だ」
「御喋りは終わりだ。――この歪みは時期に消える。お前たちにはすぐに元の世界に戻ってもらうぞ」
「ま、待って下さい! 私たちはまだ何も」
少女に問いかけに番人は冷たく返す。
「まだ何も? 貴様らが何をするというんだ?」
「でも……」
「真実を知って臆したか。――だが」
ふんと鼻を鳴らし、番人は囁く。嘲笑う言葉とは裏腹になぜかその声音は優しかった。
「貴様たちは為さねば成らない。彼らが託した世界を、未来を導くために」
その声と同時に彼らの姿が消えてゆく。もとの世界に戻った彼らはこれから如何するだろうかとふと思った。だが、それを知ったところで何かが変わるわけでもない。あの世界は彼らの世界なのだから。
消えていった人々を見送る騎士をスザクはそっと見据える。見えた横顔は酷く穏やかで。淋しくはないのだろうか。だから、ふいに声が零れたのだと思う。
「戻りたいか?」
「え……?」
こちらを向いた騎士は翡翠の瞳を驚きに見開く。自分をそのまま切り取ったように同じ姿を見つめるのはあまり気分のいいものではない。禁忌とされる所以はもしかしてそれにあるのではいかと馬鹿みたいに考えてしまう。じっとこちらを見つめたまま答えようとしない騎士に焦れたのか。
「残念だが、お前は元の世界には帰れない」
自分の言葉を引き継ぎ呟いたのは番人だった。
「この空間は生者の世界より隔絶された場所。肉体から離れ、魂のみとなったお前の輪廻の輪はすでに切れている。」
翡翠の瞳が硬直したのがわかった。この隔絶された世界に来てから次第に明らかになった彼らの魂。
死を迎え、肉体と離れた魂は死を司る者によって黄泉の世界に送られる。だが、自らの意志で肉体を離れた魂は長くは持たない。肉体と輪廻の鎖で繋がっているとしてもだ。残念ながら彼の鎖はすでに切れてしまっている。すなわち、二度と肉体に戻ることはおろか現世へ戻ることすら出来ない。
彼は翡翠の瞳を一度伏せただけだった。
何も言わない。その姿に訝しんだ時だった。再び番人が問いかける。それは今まで見たこともない姿だった。
「お前がやつらと最後の別れを望むなら、もう一度会えるよう力を貸すが?」
騎士は目を丸くして番人を見つめている。その姿が騎士を年よりも幾分も若く見せる。そっと、目を閉じた彼はしばらくしたのち――笑った。静かに、穏やかに。春の訪れとともに消えてゆく淡雪のように儚く。けれど、優しい笑顔に不意に胸を突かれた。
何故、それほどまで穏やかなのだろうか。
「いや、いいよ。僕の居場所はあそこにはないから。何より、さよならを告げたい人はいない。――僕の帰る場所はルルーシュだけだから」
微笑む彼の姿にスザクは顔を顰めた。まるで死を望んできたかのような言葉は聞いていて気持ちのいいものではない。生きるすべてが彼とともにあるなら、あの皇帝が死んだ時に彼はすでに共に死んでいたということだ。それなのに愛した人を殺さねば成らなかった。どれほど苦悩しただろう。――この空間もそうした彼の苦しみが生み出したとしたら。
(やるせねーよな……)
不意に胸が痛むが、死神という矜持がそれを許さない。死を司る己たちはどのような死と対面しようとも決して揺らいではならない。それが世界の決まりだから。
騎士である彼が真に望んだこと、それは悪逆皇帝と共にあることならば、彼の穏やかな横顔はむしろしっくりくる。
もし、輪廻の鎖が切れておらず現世に戻ったならば、彼は生きることが出来ただろうか。いや、生きることは出来たとしても心は行く場をなくしただろう。彼の心はあの皇帝と共にあるのだから――。
それははたして、真に生きているといえるだろうか。どちらが正しいとは言えない。それは己の関与できる範囲ではない。彼が望んだこの結末こそが、真実なのだから。
「わりぃけど、もうこの空間を維持してる装置が限界こえてんだわ。――あの世に行く覚悟、できてるか?」
問いかけに彼は翡翠の瞳を真っ直ぐ向けてくる。自分と同じ光。けれど、その眼差しは一点の曇りもなく澄みきっていた。何かを達観したものにしか現れないその輝きは今、自身のもとで眠る魂と同じ輝きをしている。彼らにとってゼロ・レクイエムはまさしく己のすべてをかけた最後の賭けだったのかもしれない。
力強い頷きにスザクは目を閉じた。そして、精神を集中させる。閉じた先で見えた常夜の世界。その中でただ一つ見えた銀色の光に意識を集中させる。
徐々に近づくその光が目の前に迫った瞬間、右手を振り上げる。掌に熱が集まり、そして――。
丸い青の光を宿した珠が現れる。それは次第に細く広がり、形をなしてゆく。最終的に現れたのは、巨大な鎌だった。スザクはそれを肩に担ぐと、騎士にその刃を向ける。