In These Arms
「呼延灼が言うのは、作戦遂行に必要なことだけだろう。文句くらい好きなだけ言えばいい、戦闘が終わったあとでな。明後日にここを発て。それから、突っ走って余計な真似はするな」
「なんだと」
史進が気色ばんだ。それを無視するかのように、公孫勝は淡々と続けた。
「おまえは、前回敵を深追いしすぎて、罠に嵌るところだっただろう」
二か月程前、梁山泊軍掃討を仕掛けてきた宋軍を、史進の軍は蹴散らした。しかし、陣を崩して撤収する宋軍を追撃しようとして、史進の軍は伏兵の襲撃にあったのだ。
「興奮すると見境がなくなる。林冲の馬鹿に似てきたな」
次の瞬間、物凄い力で引っ張られた。史進が、公孫勝の襟を掴み上げていた。侮辱された怒りで、険しい顔で公孫勝を睨みつけている。
子供っぽい史進のことだから、殴るくらいのことはしてくるかもしれない、と思ったが、怒りをあらわにしていた史進が、ふっと表情を変えた。
「そんなに、林冲が恋しいか?」
史進の顔には、公孫勝への揶揄が浮かんでいた。
「なんのことだ」
思いがけない言葉だった。恋しいか、だと?
誰に向かって言っている、と言いたかったが、言葉は続かなかった。
目の前の史進の顔が、いままで見たこともない表情だったからだ。
普段は明るく屈託のない史進が、目に暗い光を宿している。
林冲も、そうだった。明るく振舞っていても、人には入り込めない闇を心に持っている男だった。過去を自分のすべてで包み隠している自分とは違うのだと思った。
史進には、隠すような心の闇があるとは思えなかった。いくつになっても餓鬼だと思っていたが、いつの間に、こんな顔をするようになったのだろう。
「しらばっくれなくてもいい。俺は知っていたんだ。あんたと林冲のことを」
史進の手が、公孫勝の顎を掴んだ。それをかわそうとして横を向いたが、捕えられ、上に向けられる。
「知っていた?」
言われた意味が、一瞬分からなかった。
「正確には気づいていた、かな?林冲は否定しなかったから、まあそうなんだろうと思っていたよ」
そう言うと、史進は唇を合わせてきた。女相手には絶対にしないような強い力で抑え込まれ、逃げることはかなわなかった。荒々しく口を吸われ舌を絡め取られる。史進の体を引きはがそうともがいたが、上手く力が入らなかった。史進の太い腕はびくともしない。
ようやく唇が離れた時には、公孫勝は息苦しさから、わずかに息が上がっていた。
「一体、何の真似だ」
睨みつけると、史進には似合わない不敵な笑みが浮かんだ。
「だから、俺を代わりにしてもいいぜ。俺が林冲に見えるくらい、あいつが恋しいんだろう?」
「寝言か?何の話だかわからんな」
「ふん、まあ、いいさ」
史進の手が、公孫勝の襟もとに差し入れられてきた。無遠慮に乳首に触れてくる。
「いいかげんにしろ、私が女に見えるのか。それともお前はそこまで見境がないのか」
静かに冷たい声で突き放した。それでも史進は手を止めない。
公孫勝は史進にも自分の体にも興味がない顔で、抗うこともせず、史進が胸を弄るのに任せていた。
林冲と自分のことを、なぜ史進が知っているのか分からなかった。気づいた、と言っていたが、周囲に分かるようなことをしてきた覚えはない。そもそも、肌を合わせたのはほんの数回だ。もう、きっかけが何だったかも覚えていない。
覚えているのは、抱きしめられた時の腕の力強さや、触れあった頬の柔らかさ、林冲が自分を見つめながら苦しげに顔を歪めて微笑んだこと。目覚めてから、今見ていた夢を思い出そうとした時のような、断片的な記憶だけだった。
史進が再び唇を重ねてくる。柔らかく、角度を変えて何度も吸われた。指は公孫勝の頬を撫で、首筋を伝う。史進の手の暖かさが心地よかった。
だが、公孫勝の記憶にある手の感触とは、やはりどこか違う。公孫勝の知っている手は、もっと荒々しく熱かった。口づけは深く、心臓まで到達するような衝撃があった。
失ったものは、二度と戻らないのだ。
史進の手が、下腹部に伸びてきた。その手を押しとどめ、体を離す。
「こんな茶番はもう十分だろう、史進」
史進も、今度はおとなしく離れた。
「茶番?」
「おまえが、本気で私を抱きたいと思っているとは思えん」
「そうかな?俺はまんざらでもないんだが」
冗談ぽく笑う史進だったが、本心では抜き差しならない状態になる前に止まって、ほっとしているのかもしれない。
史進の戯言を無視し、乱された衣服を整えて出立の身支度をする。
「もう行くのか?ここに泊っていくんじゃないのか」
「まだ行かねばならん所がある。おまえと違って私は忙しい」
「ふうん」
いなくなると分かると公孫勝から意識は離れたのか、興味のなさそうな返事が返ってきた。
幕舎を出ようとすると、史進に呼び止められた。
「食い物を持って行けよ。この先、食糧が手に入るような村や集落はしばらくないぜ。旅は長いんだろう?」
「いらん、私は数日くらい食わなくても平気だ」
「せっかく用意しているんだから、貰っておくもんだぜ。俺の陣では補給させなかったなんて噂になってはかなわんからな」
そういうと史進は幕舎から顔を出し、外にいる従者へ兵糧を持ってくるように言いつけた。従者はすぐに小さな包みを持ってきた。軍が行軍時に携帯する、麦の粉を練って丸めたものと干し肉だった。たまに軍で狩りをして、猪や鹿を食う。その時に余った肉を干したのだ、と史進が説明した。
「肉が一切れでもあると、兵の気持ちが明るくなるのさ」
公孫勝の胸に包みを押しつけながら、史進はにっと笑った。
昔、似たようなことがあった、と公孫勝は思った。いや、昔ではない、ほんの数年前だ。なのに、もう随分前のことのような気がした。
あの時、三人で焚火を囲んでいた。黙々と薪をくべていたのは馬麟だった。黙って食え、と言ったのは。
「公孫勝?」
手にした包みを見つめて黙った公孫勝に、史進が不思議そうに声をかけた。
「どうかしたか?」
「いや」
今更、妙なことを思い出したものだ、と思った。人の記憶とは、厄介で、時に残酷だ。
「では、ありがたく受け取ろう」
「いつもそんなに素直だと、おまえも可愛げがあるのになぁ。」
林冲も趣味が悪い、と史進が呟く。
「ところで先ほどおまえが言っていた、林冲とのことに気づいていたとは、何だったんだ、史進?」
出ていこうとする背に声をかけると、史進は少し意外そうな顔をして振り返った。そしてにやりと笑った。
「秘密だ」
それだけ言って、幕舎から出ていった。
史進を林冲の代わりにするのは簡単だ。それで一時の寂しさを紛らわすことはできるだろう。史進は自分を林冲に似せることで林冲のいない寂しさを埋め、公孫勝はその史進を林冲の代わりにすることで空虚さを紛らわす。そんな関係は、お互いが傷つき、かえって喪失感を強くするだけなのは、目に見えている。
史進に抱きしめられても、林冲とは違う部分ばかりを探してしまうだろう。
そして、林冲はもういないという事実を、何度も繰り返して思い知るのだ。
分かっているのに、一瞬でも史進の腕に飛び込んでしまいたいと思った自分を憎んだ。
馬鹿げている。
作品名:In These Arms 作家名:いせ