闇夜の蜜
あの日から俺たちの時間は止まったままだ。
身体だけは逆らって成長していくというのに、心がそれに追い付こうとしない。
再び時を刻み始める日が、果たしてこの先訪れるのだろうか。
指で程良い弾力を弄びながら、あの日の口付に想いを馳せる。
今、もう一度それが叶うならば。
そっと近付ける唇が、緊張から僅かに震える。
浅い呼吸が、頭の中で反響して聞こえた。
震える睫毛に気付かぬよう、そっと瞳を閉じていく。
「駄目だよ」
とん、と胸を押し返す力にはっと我に返ると、晶馬の翡翠の瞳がしっかりと俺を捉えていた。
その奥には、何の感情も宿ってはいない。
「あの日、約束したじゃないか。これが最後だって」
小さく言い放った言葉は、静寂に包まれた世界に大きく反響する。
頬に触れる華奢な手が、俺を慰めるように優しく撫でていく。
その手に重ねる様に己の手を合わせ、力強く握り締めた。
「知らないのか?約束は破るためにあるんだぜ?」
だから、一緒に罪を犯そう。
既に背負っているそれに少しだけ上乗せされるだけだと、そう嗜めてみても、どんなに気丈に笑ってみせても、全てを見透かした妹は頑なに首を横に振った。
「これが僕らに課せられた罰なんだから」
わかってるんでしょ、兄貴。と、人形の様な冷たい表情で俺を拒絶した。
両親の犯した罪は、当然に僕たちが償わなければならないと、確かにそう言った。
あの時そう思ったからこそ、俺たちは兄妹として生きる事を選んだ。
自分を殺して成り立つ贖罪。それでいいのだと思っていた。
だけどその対価は重すぎるのではないか、という疑念が侵蝕していく。
単なる想いに対する言い訳に過ぎないのかもしれない。
だけどそうでも思わなければ、俺はこの世界に失望してしまいそうだった。
「兄貴?泣いてるの…?」
躊躇しながらそっと触れる晶馬の指先に、滴が伝って流れていく。
あの時晶馬が流したそれとは違う、黒い涙。
きっと酷く穢れているからなのだろう、と己の醜さに唇を噛んだ。
「兄貴、なんて、言わないでくれよ…ッ」
「…冠葉、泣かないで。僕はずっと傍に居るから、離れていったりしないから」
いつまでも一緒だよ、と微笑むのが空気を通して分かる。
一緒に居る事が出来るのに、こんなにも心は結ばれているのに、ただ触れる事が出来ないなんて。
未だに頬に触れる晶馬の掌が、伸ばされているようで、実の所突っ撥ねて俺を拒んでいる事に気付いて愕然とする。
運命に従順に生きようとする妹、運命に抗い罪を犯し続ける兄。
一体どちらが正しいのかなんて、そんな事誰にも分かるはずがないのだ。
運命なんて、所詮か弱い人間が造り出した、己を正当化する為の幻想でしかないのだから。
だったら―――…。
がしゃん、と何かが崩壊する音を聞いた。
「なぁ晶馬、」
やっぱり約束は破るためにあると思うんだ。
俺が罪も愛も全て綺麗に塗り変えてみせる。
だから、幸せになろう。
華奢な身体を抑えつけて、俺は滑稽な程に口元を歪めて嗤った。
不自然に途切れた紅い糸は、やはり不格好なままで泣いている。
だけどその日、確かに止まっていた時間は針を動かし始めたんだ。