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たった一つの冴えたやりかた

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暑い空気がもわっと顔を通り過ぎてゆく。雨上がりだというのに空気は一向に涼しくなる気配を見せず、それどころかたっぷりと水気をはらんで一層蒸し暑さに拍車をかけている。
折原はそんな空気の中、吐息とともにかぶっていたフードを脱いだ。いい加減コートの季節ではないのかもしれないが、季節感など実際のところ彼にとってはどうでもよいことであり、さらにいうなら自分をつつむ世界の感触なども、同様にどうでもよいことであった。彼を彼たらしめるのはただ人間だけであり、それ以外の地球がもたらす全ては、なんということもない、感じる必要さえ見当たらない、ただ過ぎ行くだけのものであった。
さて、と彼はわりと大きな路地にそっと顔を出しあたりを伺う。どうやらまだあの化物はこちらに気づいていないらしい。ちょっといたづらが過ぎて、さっきまでアンダーグラウンドな連中と大捕物を繰り広げていたばかりだから、今あの怪物と出会うのはなるべくなら避けたいところだった。服を着替えようか、とも考えたが、他の人間相手ならともかく、あの男相手にそんな小細工が通用するとは思えない。はあ、とため息を吐く。なんでこの年になってあんなのの相手しなきゃいけないかなあ。そりゃ、先にアイツに興味を持ったのは自分だ。だからといって、もう二十代も後半に差し掛かるというのに(いや、もちろん自分は21歳から年はとらない設定なので永遠にステキでムテキな情報屋エンジェルン☆だが)顔を付き合わせるたびに喧嘩なんかしてられない。
気づかれていないうちにさっさと我が家のどれかに帰ってしまおう!とくるりと通りに背を向けてスキップをはじめた。それがいけなかったらしい。気づくと肩を掴まれてせまい路地裏の壁に押し付けられていた。不覚、と脳内で小さくつぶやきながら、「…ハロー、シズちゃん。おひさしぶり」と笑んで見せる。目の前の男はそんな折原の言葉など一向聞こえていない、というようなようすで、折原の肩を片手で押さえたまま動かない。しばらく切っていないのか、記憶の中の姿よりすこし伸びた金に染められた髪が目の前でゆれる。そんな男の姿に折原はすこしの疑問を抱いた。いつもならすぐにでも殴りかかってくる男が妙にしずかである。どうして殴りかかってこないのか。いやむしろどうしてこんなにも圧倒的に有利な状況で俺を殺しにかかってこないのか。
「…シズちゃん?」
ちいさな声で尋ねてみると、男はふるりと体を震わせて、そうとその頭をあげた。折原より頭ひとつ分ほど背の高い男の琥珀色の瞳が折原を見下ろす。その瞳はいつになくしずかに凪いでいた。乾いた口唇が何かを言おうとするようによわくひらく。
そういえば、と折原は思った。そういえば、この男とは随分と長い付き合いになるが、こんなに近距離で、ただ見詰めあったことなどなかった気がする。自分の紅い瞳が彼の琥珀の中にきらきらとうつっていた。自分はこんな目をして彼を見ていたのか、と不思議にしずかなきもちで思う。
「臨也」
彼は折原のそんなきもちを映したかのようなしずかな調子で口唇を動かした。
「どうしたのシズちゃん。きもちわるいな」
「…いざや」
「だからなんだっての。つか、離しなよ。俺いま君の相手してられるほどヒマじゃないんだよね」
「そうか」
男が変わらず静かな調子で話すので、折原は変に不安なきもちになってきた。
「…なんなの、シズちゃん。きもちわるいよ。いつもの勢いはどうしたの。君らしくない。化物なんだから化物らしくしてなよ」
そういうと、男は静かに笑んだ。ぐっと肩に置かれた手に力がこもる。折原はじわじわとしたつよい恐怖を感じて笑い返しながら口唇をそっと噛んだ。ここで終わりか。本当なら、もっとちゃんと用意をして、彼をたたきのめしてからにしたかった。ちゃんとヴァルハラへ行きたかった。このままじゃきっと、俺は選ばれない。しずかに目を閉じると口唇にやわらかな感触があった。

死んでない。
そう思って折原が瞼を上げると目の前には瞳を閉じたままの自分がいた。
「え?」
思わず声を上げると目の前の自分がそっと目を開けた。紅い瞳が凪いでいる。黒い髪がそよかぜにやわらかに揺れた。自分で言うのもなんだが、きれいだ。
「…え?」
途端、目の前の自分がにやりと厭なふうに微笑んで、さっと体をしずめると脇をすり抜けて逃げていった。
「おい!待てよ!」と叫んだが黒いファーコートはあっというまに人混みにまぎれて、そして折原は自分の声帯から発された、いつもよりずっと低くてドスの聞いた声に気をとられて、黒いファーコートの自分のことなどすぐに忘れた。手を見る。その手はいつも見る己のものよりひとまわりは大きくてなんでも潰せそうにゴツゴツとしていた。その手で顔から順に、胴、足、とさわってみる。高い鼻、全体的に骨ばった、背ばかり伸びたような体。これは。これは憎いあいつの。
「…なんで」
数分前を思い出す。殺されると思ったときだ。彼は俺にキスをした。それ以外なにもしていない。なら。この状況はあのキスのせいだとしか言えないのではないか。平和島静雄。いつもとちょっと違うなと思ったら。ちくしょうなにしやがる。
しかし、このバケモノの体を好きに扱えると思うと少し嬉しくもあった。何をしてやろうか。きっととんでもない力を扱えるに違いないし、悪いうわさを流すのも造作もない。やっぱりあいつはばかだ。俺に体を渡すなんて。悪用しないとでも思ったの?俺は悪用しかしないよ。ばかだなあ。
数時間後。いつもなら絶対にできない自販機投げなんかを楽しみつつおびえる人々の表情に折原が愉悦に浸っていると、尻ポケットでマナーモードの携帯が鳴った。しばらく無視していたがあまりにしつこく鳴り続けているので乱暴な仕草で携帯を取り出し表示を見ると「新羅」とある。やや面倒臭く感じながらも「はーい、もしもーし?」と出てやる。折原が言葉を発すると当然のように平和島の声が声帯から漏れた。それがおかしくて笑いそうになる。しかしそんな折原のきもちなど察する余裕もないように電話の向こうの空気は緊張していた。張り詰めてふるえていた。新羅がこんなに余裕がないなんて珍しい。首ナシ関連のことだろうか。この時点ではまだ折原は余裕を持っていた。次のひとことを聞くまでは。
「静雄」
「なに」
「臨也が」
俺?言いかけて口をつぐむ。臨也?と聞き返すと新羅が向こうでごくりと息を飲み、臨也が…ともういちど繰り返して言った。
「臨也が死んだ」
そのあとのことは、もうなにも、鼓膜から脳へと入っては来なかった。