幻影桜花~追慕~
人里離れた山の上に、その木は立っていた。
まだ若い山桜の木だった。
春が訪れるたび、満開の花を咲かせ、山を彩り、人々を楽しませてきた。春がすぎ、夏が近づくと葉を茂らせ、秋になると葉を落とし、翌年のための力を蓄え、やってくる冬の厳しさを待つ。長い冬をじっとたえ、また春が巡る。
幾年も幾年も彼はそうして過ごしてきた。
いつしか木は神の宿る木として人々に敬われるようになった。社殿の無い神域であったため御神体として扱われるようになり、身体を支える幹に神祭具であるしめ縄が結ばれた。多くの人が訪れるようになり、彼に多くの願いを捧げていった。さらに多くの富を。戦の守り神として勝利を。戦乱の世が終わりを告げ平和な世界であることを。多くの人が集い、祈りを捧げた。
彼はそれをすべて聞いていた。高貴な身分の都人の声も。戦いに赴く侍の声も。親を亡くした幼子の泣き声も。すべて聞いていた。血のにじむ叫びに葉を揺らすこともあった。必死の懇願に花を落とすこともあった。けれど、彼はどうすることも出来なかった。何故なら、彼は木だからだ。ただじっと地に立ち、巡りゆく季節に身を任せるしかない自然の一部でしかなかった。人々から神と崇められようとも、彼はただの木でしかなかったのだ。だから、木は見守り続けた。多くの涙を、捧げられる願いを。ただじっと、耳を傾け人々を見続けていた。
そんなある日のことだった。一人の男が立っていた。まだ若い二十歳前後と言ったところだろうか。艶やかな紫の狩衣を纏った青年は青い瞳を真っ直ぐ木に注いでいた。風が流れると同時に青年の黒髪をゆっくりと揺らしてゆく。青年はじっと木を見ていた。木もまた青年を見つめた。人には珍しく清らかな気を放つものだった。幹に触れられても嫌な気はしない。むしろ自身の身が洗い清められ心地いいとさえ思ってしまう。不思議な人間だった。青年はじっと木を見つめていたがその表情がみるみる曇って言った。そして憂いを含んだ青い瞳を木に向け囁いた。
『あなたは、悲しんでおいでだ。憂いておいでだ』
何故と問う青年に木は無言を返した。否、答えようがなかったのだ。ただじっと佇む木に青年はまたしても問いかけた。
『あなたは、人がお好きですか?』
幾度も過ちを繰り返し、日々戦に明け暮れる。そんな人をどう思われるか。青年は静かな眼差しで木に問うた。木は、考えた。
確かに人は嘆きながらも戦を繰り返し、罪を請いながらも誰かを殺める。矛盾した人と言う生き物。けれど――。
木の脳裏をよぎったのは毎年春になると訪れる多くの人の姿だった。笑顔で木を見つめ、感謝の言葉を告げる。それは時に歌であり、舞であり、供物であり。様々な形で木に感謝の言葉を捧げてくれた。
その言葉が嬉しかった。笑顔を見るのが嬉しくて、毎年懸命に花を咲かせた。すべては人と共にあった。木を神と呼んだのも人だった。
だから、何も出来ぬ己が歯がゆかった。伝える言葉を持てば、もっと伝えることが出来るのに。木は青年に向け懸命に葉を揺らした。ただ一言、“好きだ”と答えを返すことも叶わぬ身が口惜しい。
青年は目を細めるとゆっくりと表情を和らげた。その眼差しは、春の陽だまりに似ていた。木は青年の姿から目が離せなかった。
『鎮守の森に根を張る山桜の神よ。ひとたび神と呼ばれたからにはその名に相応しき行いがございましょう。――ですが、あなたはご自分の役目を存じていらっしゃる。その上でさらに人と共にありたいと願うならば』
“名を捧げましょう”
青年は厳かな声で告げた。
(……名?)
木は知らなかった。己に名があるということを。生まれてからずっと知らなかった。青年は木を見上げ微笑んだ。そうして一つの名を呟く。
同時に全身を走り抜けた戦慄に意識がはじけ飛ぶ。四肢が痺れ、視界が狭まる。木は大きく震えた。枝を震わせ、徐々に強まる閉塞感にもがく。
青年の声が身体の奥深くに到達すると、今まで見えなかった世界が目の前に広がっていた。鳥のさえずりが耳を擽り、吹き抜ける風のぬくもりを直ぐ傍で感じる。世界が色鮮やかにうつる。青年が再び名を紡ぐ。
その瞬間、胸の内に溢れたのは痛みにも似た疼きと確かな喜びだった。
青年が自らの名を告げる。その名を繰り返せば、微笑みを返してくれる。長年願い続けた声が届いた瞬間だった。そして青年は彼の目の前で膝を折ると、真摯な眼差しで言った。
『どうか、あなたの力を貸して頂きたいのです』
その言葉が何を意味するか彼は知らなかった。けれど、彼は青年に向け手を伸ばしていた。
それがすべての始まりだったのだ。
******
ひらり、ひらりと桜が舞い散る。
山の一角を淡い花弁が華やかに彩る中、一際目を引く樹があった。まだ若い桜の木であったが、枝を悠々と空に伸ばす姿は他を圧倒するほどの力強さがあった。その木を見つめる一人の青年の姿があった。紫色に染まった狩衣の裾を吹き抜ける風が揺らしてゆく。同時に彼の漆黒の髪も揺らしてゆく。
青年は目の前に降りてきた花弁に手を伸ばすと掌に落ちた一つを見つめ青い瞳を和らげた。そして、目の前に立つ桜を見上げる。近づけば近づくほど辺りの空気が澄んでゆく。その清廉な空気は山々を浄化させ、輝かしいばかりの生命力を与えてゆくのだ。社もないのに村人たちがこの木をあがめる理由がよく分かる。
青年――雪男は満開に咲き誇る桜の木の下を見つめ、微笑んだ。その瞳に映るのは一人の少年である。白い水干姿で、幹に身体を預け眠っている。艶やかな黒髪に桜の花弁がいくつも降り注いでいる。見ているこちらまで心地よくなるほど、少年は穏やかな表情で眠っていた。日の光を浴び、髪色が青く輝いて見えた。雪男は足音を立てないように近付くと、少年の目の前に膝を折った。いつも彼を捉えて放さない青い瞳が今は見えない。
生命力溢れる瞳は何時だって澄み切り、真っすぐ前を見据えている。
蒼凛子(そうりんし)――――それが彼の真名。誰も知らぬ神名を読むことの出来ぬ者しか知りえぬ真実の名。
【蒼く煌く光の如く凛と佇み人々を導きたまえ】
その名の通り、彼は眩い光そのものだと雪男は思う。眩しすぎて、直視することが出来ない。凛と背を伸ばし、佇む姿を目にするたび、捕らわれてしまう。白く肌理細やかな頬に手を伸ばすが、届く寸前で動きを止める。少年は、ただの人ではない。少年は彼が背を預ける桜の木の化身であり、古の一族と呼ばれるもの。雪男は伸ばした手を握りしめると唇を噛んだ。人々が神と崇める存在でもある。己のような下賤なものが触れていいものではない。
心が重く沈む中、桜が静かに、静かに降り注ぐ。
尊き存在だとは分かっている。それでも、この、胸に宿る想いは日増しに募り続けている。桜の化身であるこの少年が、愛しい。初めて逢った時から、きっと。惹かれていたに違いない。雪男は白水干の裾に手を伸ばすと、その先にそっと口づけた。この胸に宿る想いは何があっても口にしない。生涯秘してゆくのだと心に誓う。
「――“燐”」
雪男は少年を見つめ、微笑んだ。
その姿をあたりを囲う桜が静かに見つめていた。