幻影桜花~追慕~
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ひらり、ひらり――と。桜が舞い散る。
太い幹を伝い枝の上に腰かけた少年は満開に咲き誇る自身の合間から空を見上げた。風が吹くたび、少年の艶やかな黒髪を揺らしてゆく。頭上から降り注ぐ桜の花弁が少年の真っ白な水干を柔らかく彩る。少年はほっと息を吐いた。
脳裏を過るのは、一人の人間の姿だった。
少年は遥か昔より自然の中で生きる古き一族である。人とは異なる不思議な力を持ち、人より神と崇められることもあった。だが、その人間は人でありながらも人ならぬ力を持ったものだった。少年に名を与え、進むべき道を指し示し、そして――。少年に胸の疼きを与えた。
「――雪男」
名を呟けば、紫色の衣を纏った青年の姿が目の目に蘇る。自分と似た、けれども幾分も澄んだ青い瞳を真っ直ぐ自分に向けてきた。柔らかな声音を耳にするたび、心が躍り嬉しくなった。青年と出会ってから胸の疼きが止まないのだ。
ふらりと立ち寄っては色々な話を聞かせてくれ、季節折々の供物を捧げ、少年を喜ばせてくれる。いつしか青年の訪れを待ちわびるようになった。人の気配がするたび木の上から青年の姿を探し、違うと分かるたび落胆する。そんな日が幾日も続いている。そして、先日ようやく会えた時には訳のわからぬ熱に邪魔をされ、直視することが出来なかった。別れる間際、また戦が始まると顔を曇らせていた。憂いを滲ませた横顔に胸が痛んだ。その時だった。
「浮かない顔をしていますね」
聞こえてきた声に視線を落とせば、近頃よく目にする男の姿が目に入った。簡素な衣を纏いながらも、高価な扇子を持ち、口元を隠している。藍色の髪に時折走る稲妻。――それが彼の力の源である。彼は空を渡る雷神。
「――なんだ、メフィストか」
「何だとはつれないですね。あなたと私の仲ではありませんか」
「気持ち悪い言い方すんな……」
眉間に深い皺を寄せながら視線をそらせば、返ってきたのは小さな溜息だった。相変わらず冷たいなどと小言を呟いているが、雷神と呼ばれる彼とて、古の一族に違いない。
本来、古の一族は互いの領域を侵さないのが通例である。それを堂々と破る者にとやかく言われたくはない。無視を決め込む少年に対し、肩をすくめた雷神はゆったりと囁いた。
「そのような難しい顔をして。可愛らしい顔が台無しですよ?」
「――誰が、可愛いって?」
聞き捨てならない言葉に反射的に食ってかかっていた。視線を向けた瞬間、黄緑色の瞳と目が合い、息をのむ。己よりも長い年月を生き、空を旅し続けている雷神の瞳は真剣そのものだった。真っすぐことらを見据えている。その瞳からは簡単には逃れられないと本能が告げていた。
「何か悩みをお持ちなのでは?――私でよろしければお伺いしますよ」
にっこりとほほ笑む姿が心底胡散臭いと思ってしまうのは、彼の飄飄とした態度が原因だと思う。だが、いくら考えてもこの胸の疼きは止まない。ならば、己よりも長き時を生きる彼の者ならば原因が分かるかもしれないと少年は胸に留まり続ける疼きを唇に乗せた。話し終えると同時に少年は驚いた。同族である彼は、目を見開き驚きの表情で少年を凝視していたのだ。
「メフィスト?」
「……え、ああ、失礼しました。あまりにも驚いたもので」
それほどまでに悪い状態なのかと問うた少年に雷神は黄緑色の瞳を細めた。
「なに、大丈夫ですよ。悪いものではありません。――ただ」
「ただ?」
「私たち古の一族にとっては珍しいと思っただけです」
「――何が言いたい?」
雷神は扇子で口元を覆い、そして、流れる風の先を見据えて囁いた。
「それは――“恋情”ですよ」
「え……?」
風が吹き抜けた後、雷神は少年を見上げ微笑んだ。嘲るものではなく、どこか優しく見守る温かさを持っていた。
「貴方は、貴方に“名”を与えたその者に恋をしているのですよ」
“――恋”
少年は息を飲んだ。それと同時に今まで深い霧に閉ざされていた心が一気に晴れてゆく。同時に戸惑いが一気に押し寄せてくる。神が人間に恋をするなどありえない。けれど、戸惑いとは裏腹に胸に満ちたのは、確かな喜びだった。
それは恋を自覚したある春の日の出来事だった。
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「――燐、どうかした?」
頭上から聞こえてきた声にはっと我に返る。見えたのは、己を覗きこむ青い瞳だった。見上げた先にあるのは緑生い茂る山桜の姿。今は、春ではない。満開の桜が山々を彩っていた季節は過ぎ新緑鮮やかな初夏が訪れたところだった。だが、燐の瞳に映るのは桜舞い散る春の記憶である。桜の花弁と共に彼の人の姿を夢見る。別れの悲しみと絶望を知った時からずっとそうしてきた。覚めることのない春の夢。あれから幾年月が過ぎたが、彼の瞳に映るものは決して変わらないはずだった。
「燐?」
不思議そうに首を傾げる少年は、彼の人の血を受け継ぐものである。袴を纏い燐に向け手を差し出す。燐は差し出された手に掴まり立ち上がった。そして、少年に向け微笑んだ。
少年の名は奥村雪男。奇しくも彼の人と同じ名であり、まだ幼いながらも整った顔立ち、青い瞳の色も彼の人の面影を強く宿している。春以外の彩りを映すことのなかった燐の瞳に初めて映ったのがこの少年だった。永遠に続く夢の中に、くっきりと浮かび上がる一人の少年に目を細める。一生を終え、死したもの達はあの世へと向かい、そしてまた地上に降り、生まれ変わるという。
“輪廻転生”
その言葉が本当ならば、目の前のこの少年は彼の人の魂が生まれ変わった姿だろうか。彼の人の血を受け継いでいるからと言ってここまで似るものだろうか。人より長い年月を生き、神と崇められた燐とて分からない。
「――燐、ほら」
それでも少年は燐に彩りを与えた。あの日から止まったままの世界に確かな変化を齎した。少年が燐の名を呼ぶたび、湧き上がるのはあの春の日に感じた喜びに少しだけ似ていた。
それは、彼の人がいなくなって数百年後のある日のことだった。