デラシネ
門から玄関へと続く石畳の上、八谷の過ぎた跡には水溜まりができた。
水を含んで重くなったポンチョを、トビラの外に丸めて置いて八谷はネルソンと対面する。ネルソンは傘をたたみ淡々と語る。
『君の姿を見たときは、一体何のしわざかと思ったわな』
ここには通訳はいない。わかっていた筈なのに、八谷は言葉の壁に途方に暮れた。それはネルソンも同様であったらしく、眉根を寄せて右手の人さし指を八谷の前にかざしその歩みを静止させてから言葉を放つ。
『何か拭く物を持ってくるのだわ』
さながら犬を躾けるように言い含められたが、それでも八谷は悪い気はしなかった。
「ボス」
八谷の声に振り返ったネルソンは、ひらひらと手を振って廊下の奥に消えた。
窓から差し込む稲光に、少し遅れて雷鳴が轟く。居間にしつらえられたソファーの上、毛布に包まりながら八谷はネルソンの姿を目で追った。
『……多少は私も分からないでもないがな、できるだけ堪能な者を寄越して欲しいのだわ』
受話器を手にネルソンは話している。その相手も、内容も八谷にはさっぱりわからない。やがて電話を終えたネルソンは再び姿を消し、そして今度はマグカップを二つ携え戻ってきた。
『飲むといい。何も変な物は入っていないよ』
ネルソンはマグカップの一つを八谷に手渡す。湯気のたつその中身はコーヒーだった。香ばしい匂いが鼻をつき八谷は唾を飲み込んだ。
『……さて何から、どう話せばよいのやら』
八谷の隣に腰掛け、ネルソンはつぶやいた。マグカップを手の中で弄びながら、八谷は目を泳がせる。ネルソンは薄く微笑んだまま何も言わない。己の無力さに、八谷は泣きたくなった。
「ボス、聞いてください」
鼻の奥が痛い。涙と嗚咽の代わりに言葉を吐き出した。通じる通じないは、もはや関係なかった。
ジリジリと、耳障りな呼び鈴の音がする。八谷からの言葉の夕立をじっと受け止めていたネルソンが、すっと人さし指を八谷の口許にかざす。
『どうやら、助け船が来たようなのだわ』
君にとっても、私にとっても。
八谷はその腕をつかみ、言った。
「俺の言ってること……やっぱわかんないんスか」
ボス。
ネルソンは立ち上がる。立ち上がって、八谷の長い前髪をたくしあげた。
『この髪は、私を見るのに随分邪魔をしているのだわ』
「キリナサイ」
額に触れる、かさついた指。耳慣れぬ日本語の響きで改めてネルソンの声色を自覚し、八谷は動けない。
『随分と図体のデカイ子供だね。私はお前さんが欲しがっている言葉を知っているよ』
だからーーあげよう。
再び呼び鈴が鳴った。ネルソンは八谷を置いて、通訳を招き入れるために部屋を出た。
宿に戻った八谷は、夜明けを待って宿の洗面台に立った。
道端で子供から買った古新聞を開き、洗面台に広げる。締まりの悪い蛇口から落ちた水滴が紙にしみ込んだ。
八谷は前髪を掴み剃刀をあてる。視界を覆う、夜明け前の群青の中、パラパラと髪が散る。端々が錆びついた鏡に、暁の陽光が反射した。
剃刀を置く。新聞紙を丸めてくず入れに投げ込む。八谷は蛇口を勢いよくひねり、生温い水で顔を洗った。
八谷は鏡に映る己の姿に苦笑した。
神に傅く聖者になったつもりが、これではまるで修行僧じゃないか。
八谷が帰国して間もなく、年が明けた。
そして。
ブラジルからの便りが、来た。