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デラシネ

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 半日がかりで着いた町で、ひとまず宿に入った。
 こちらの活動拠点へ顔を出すと言って知人が外出すると、八谷は宿に取り残された。八谷は荷物を解く気もおきず、ベッドに横たわって部屋を眺めた。
 部屋は壁一面が日本ではなかなかお目にかかれないペールグリーンで塗装されていた。ところどころカビに侵食され黒ずんでいるあたり、長く手が入っていないのだろう。埃っぽい澱んだ空気の匂い。時折隣室や廊下から騒々しい話し声が聞こえた。
 八谷は寝返りをうつ。ちょうど視線がぶつかる壁面に、誰かが落書きをしていた。赤いインクで記された文字。その意味はよくわからなかった。
 半時間余りのうたたねの後、戻ってきていた知人と共に食事へ出た。
 軒先に集う地元民の合間を、子供達がボロボロのサッカーボールを追って、駆け抜ける。その脇では野良犬が大きな欠伸をしている。
 屋台の並ぶ夜の市場。その一軒で食事を取ることにした。
 
 香辛料の強さに舌先を痺れさせながら、日程の確認をする。八谷の帰国は七日後。それまでに、ネルソンを探して、会わなければならない。
 ネルソンの動向を掴んでいる川崎のスタッフは少なかった。あるいは知っていたとしても、一選手にすぎない八谷に教える義務などなかった。だから八谷はこの国まで来たのだ。
 今のところ得られた情報としては、ネルソンは国内リーグへ頻繁に足を運んでいるとのことだった。だが、それ以上の詳報はない。
「結局ボス自宅で待ちかまえるしかねえよ」
 鳥肉を頬張りながらそう呟いた八谷に、知人はそれってストーカーじゃないかと笑った。
「知ってる」
 八谷は肉塊を飲み込み、口許に付いたトマトソースを手の甲で拭った。

 宿に戻り、八谷は壁を指差し落書きの意味を知人に問うた。なんだよおっかないな。おそるおそる覗き込み知人は呟いた。
「これフランス語だろ、たぶん」
 根無し草って意味だ。知人は続ける。ネナシグサ。そう反芻する八谷を指差して、お前みたいな奴のことだよ、と知人は笑った。
「お前だけじゃなく、サッカー選手ってのは皆、根無し草みたいなもんじゃないか?」 
 八谷は息を飲んだ。だが不思議と腹も立たずに、そうだな、と頷いた。
 
 翌朝は雨だった。リュックを背負った上から、ポンチョを羽織り地図を手に出発する。
 旧市街とはいえ、比較的富裕層が多く住む地域にネルソンの自宅はあるらしい。
 知人と別れて小一時間。古い門扉の前に八谷は立っていた。
 煉瓦造りの壁に囲まれた瀟洒な一戸建てが、灰色の雲の下雨で煙る。ひび割れた煉瓦の隙間を縫うように蔦が茂っている。室内に明かりはなく、庭を全面に覆った芝生は、ところどころ枯れて白けていた。
(ここが、ボスの家だろうか)
 勿論表札などない。八谷はその場に立ちすくむ。ここへきて急に臆病風が吹いた。
(会ってどうするってんだ、俺は)
 そうしているうちに雨脚は強まっていった。遠くから雷鳴が聞こえる。生暖かい雨が腕をつたった。
 八谷は膝を抱え壁に背をつけ座り込む。時折ヘッドライトを点けた車が猛スピードで過ぎ去る他には界隈に人通りはない。身体が泥のように重かった。後悔が足の爪先にまで充ちてくる。
 降り注ぐ雨が止んだのはその時だった。

「ハチヤ?」

 聞き覚えある声に八谷は顔を上げた。
 傘を差したネルソンだった。

作品名:デラシネ 作家名:コツメ