Hepatica
処女宮にはやはりシャカの小宇宙は感じられなかった。最奥へと向かい、飛び出した時には開かれていたはずの門の前で立ち尽くす。今は押しても引いてもびくともしない、開かずの門となっていた。
扉の向こうからシャカの小宇宙は感じられなかったが、シャカは此処にいるのだろうと確信したムウは心を落ち着かせるように大きく深呼吸して声を掛けた。
「シャカ……ここを開けてくれませんか。もう一度話したいのです。さっきは驚いてしまって……すみませんでした。だから―――」
もう一度、話し合いましょう。そう言葉を続けるはずだったのだが、言葉を待たずして、ゆっくりと門が開かれていった。
「―――ありがとうございます、シャカ」
ふわりと漂う花の香りに包まれながら、ムウは一歩踏み出した。
揺れる草花に目を細め、シャカの姿を探すが見当たらなかった。今度こそ、はっきりとわかるシャカの小宇宙だけを頼りに進んでいくと、シャカは草花の中で埋もれるように横たわっていた。
その表情は両の腕を曲げて顔の上に乗せられていたからわからなかったが、なぜかシャカが泣いているように見えた。
「シャカ……」
手を伸ばしかけたが、ムウは結局シャカに触れることはせず、そのまま引っ込めようとした。しかし、それは叶わなかった。シャカがその手を掴んだからだ。
強引というには遠慮がち。だが、選択の余地のない誘惑のような引力に引き寄せられて、ムウはそのまま手引かれ、かろうじてシャカを潰さないように倒れ込んだ。ほんの僅かでも力を抜けば密着する有様だ。ムウにすれば少々苦しい体勢である。
「話し合い、というにはちょっと…きつい格好なんですが」
どうにも近過ぎて、話しかけるだけで息が掛かり、シャカの睫毛がゆれているようにさえ見える。意識しないでおこうと思えば思うほど、ムウの緊張は高まった。
「そのまま力を抜けばいいのではないかね」
「あっさり言ってくれますけど、それでは潰れてしまいますよ、あなたが」
「そんなに柔なものではないが」
フッとようやく笑みを浮かべたシャカ。そろりと細い指先が迷う事なくムウの顔を辿る。何かを確かめているようだった。そして、徐に話し出す。
「――――きみが見せてくれた百花繚乱の美しい花園。共に立つのは私ではないとはわかっていても、横に並んで眺めてみたかった。でもそれは叶わぬ夢。わかっている。私にはこの花園が相応しいということも」
「そんな、シャカ」
「時々思う事がある。今の世がいつかは覚める夢なのではないのかと。ならば、もう少しだけ……夢見ていたいと。人が抱く普遍的なそれにひれ伏して、時に笑い、時に嘆き、喜び、怒り、苦しみ、そして―――祈る」
「祈る……」
「この命が尽きるまで、いや尽きた後もきっと……私は幸せな夢を見続けるだろう。だから、恐れも哀しみもない。ただあるのは希望だけだ」
「死の先にあるのは―――希望、なのですか」
頷きも肯定の返事もなかったが、零れ落ちた光を凝縮したようにシャカは笑んだ。心の底から沸き上がる、絶対的な感情。それこそムウはひれ伏すような思いがした。
「―――わかりました。シャカ、あなたの望むままに。でも、これだけは知っておいて欲しい。どれだけ残酷な願いであるかということを。私は味わった事の無い恐怖と闘い、私の心が削ぎ落とされるのだということを」
シャカは少しだけ悲しい顔をしたが、ゆるゆると首を振った。そして上体を僅かに起こし、シャカは額をムウの額と合わせた。
「わかっている。どれだけ残酷な願いかということも。酷く利己的であることも。だが、君はきっと恐怖に打ち勝つだろう。その逞しい心がどれだけ削がれようとも血を流そうとも、屈する事はないだろう。だから、私は―――潔く散る」
「本当に……容赦のない人ですね」
はぁ、とムウは大きく息を吐いた。逃げる事も許されない。でも、ムウはどこか心地よささえ感じた。シャカがムウに対して絶対的な信頼を置いてくれているのだろうということがわかったからだ。
「前に言ってましたよね……あなたに心を許してはいけない、と。今更ですが、本当にその忠告を聞いていればよかったとつくづく思いますよ」
「今更、だ。ムウ。それに私は真に望むものは不思議と手に入れることができるのだよ―――」
そっと重ねられた口唇。どれだけ恨み事を連ねたところで、きっといとも簡単に捩じ伏せられるのだろうとムウは思う。
シャカの細波のような小宇宙を全身で感じ、受け止めながら、夢に描いた懐かしい花の楽園をシャカと共に歩く姿がムウの脳裏に浮かび上がった。
咲き乱れる花、花、花。
時折、優しい風が草花を撫でる。
とても当たり前のように二人は並んで、降り注ぐ陽光に少し目を細めて。
元気よく子供たちが駆けていく姿を見つめる。
希望という未来の光の中で、私たちはきっと在る。
―――深い祈りを捧げながら。
Fin.