Hepatica
Monlam
1.
「――驚いた。まさか、と思っていたんですけど。シャカ、いつ、こちらへ?」
花の香さえ漂いそうな、柔らかな髪を揺らしながら、薄暗い階上より降りてきたムウ。深い霧に覆われたチベットの奥地、ジャミールに佇む塔で、ひっそりと吐く息さえも潜めるようにして住まう彼の元をシャカが尋ねたのは、一時間ほど前のこと。
微かに感じるムウの小宇宙を感知することができなければ、到底、このようなところに人が住んでいるとは思えない、寂しげな土地。
同じチベットでも遠く離れたところでは凍てつく大地も溶けるほどの人々の熱気に満ちた祈りが今まさに繰り広げられ、モノクロの世界も極彩色に彩られているというのに。立ち上る煙の先にある幻想世界のさらに最奥といった場所にあるここでムウは何を思うのか……。
塔の最上で彼の小宇宙が長い間、留まっているのは判ってはいたが、そこにシャカは足を踏み入れることが出来ずにいた。結果としてはムウを待つという形になりながら、モンラムの季節を迎えた厳しい寒さに時折身を竦めていたのだった。
なぜそんな行動を取っているのか。それはシャカが黄金聖闘士になってまだ間もない頃―――ただ一度だけ、彼の師に対峙したことがあった。纏う空気だけでもわかる、厳格な彼の師。そんな人物に、まだ幼かったシャカはきつく諭されたのだ。ムウが今いるその場所に「絶対に近づくな」と。
その言葉が、烙印のようにシャカの胸に刻まれたのは、深い皺に埋もれた計り知れぬ彼の師の、深い悲しみに気づいてしまったせいなのだろうとシャカは思う。
シャカにとって、不吉な危険地帯ともいえる場所。そこにムウが入り浸る理由はわからなかった。そして、階段を降りてきたムウはシャカの姿に気づく前も彼の周囲を満たすものは決して幸福感というものではなく、むしろ彼の師と同様のものであることが、シャカの心を少なからず暗いものとした。
塔を包み込むような冷えた空気に寒々とした気持ちをシャカは抱きながら、ムウに対してちょっとした違和感を覚え、首を僅かに傾げた。ムウが降りてくるのを待ち、近づいてきたムウの長く滑るような髪へと冷えきった手を伸ばしながら告げる。
「着いてから、かれこれ一時間ほどにはなるであろうな。―――ああ、なるほど。なんだか落ち着かぬと思えば、今日は髪を束ねていないからだな。君にしては珍しいものだ」
さらりとムウの髪を通り抜けた指先。違和感の正体はそれだけではなかったが、ほんの刹那、視線を反らしたムウの反応から、あまり触れては欲しくはない話題なのだろうとシャカは思い、広げられたムウの両腕に黙って迎え入れられた。
「ようこそ、シャカ。気づかずに、お待たせしてしまって。随分と身体も冷えているじゃないですか。ほんとうに申し訳なかったです」
ポンポンと友愛を示すように、互いに軽く背中を叩き合って離れた。ムウは用意されたような微笑をシャカに向けると、何もない掌の上に髪留めのための紐を瞬間移動させ、手早く、いつものような纏め髪にしてみせた。
「連絡せずに私が勝手に訪ねたのだから、君に非はない」
「まぁ、そうかもしれませんけれども。できるものなら、すぐに迎えたいと思いますから。それで?今日はどういった用向きでいらしたのですか」
至っていつも通りと平静さを装うムウ。ムウに纏わりつく小さな影をシャカは見落としたりはしなかった。それでもムウが望むなら、と敢えてシャカは追求したりはしなかった。
いつから、こんな風にムウに対して「遠慮」というものをするようになったのだろうかとシャカは思う。無意味に笑んだ為か、ムウが怪訝そうに「どうしました?」と重ねて問うのだった。
「君はいつも、質問ばかりだな」
「そうでしたか?そうですね……そうかもしれません。だって、シャカ。あなたの考えていることは、私には考えも及ばないことが多いですからね」
ムウはそう言いながら、肩をすくめて口端を曲げて見せた。
「それはお互いさま、ではないのかね?君のほうだって急にジャミールなどに身を隠すように引っ込んだのだから。何事が起きたのかと、あの頃は随分考え込んだものだ」
そうですね、と本心を見せまいとする曖昧な表情を浮かべながら、この話題からも逃げようとするムウにシャカは見えない透明な壁が、作り出されていくのを感じた。けれども、それは薄く脆い壁。きっと強引に叩けば、跡形もなく崩れ落ちるだろう。その結果、どのような状況に陥るのか判らなかった。無遠慮な行動の結果に訪れるのは友情の亀裂なのか、未知の事態なのか。シャカは恐れていたのかもしれないとぼんやり思う。
塔の真ん中あたりにある、ムウが居住しているスペースへと向かいながら、核心には触れずに話を進めた。
「まあいい。まずは用件だが。本当は君のことが気になって仕方ないのに、素直に訪ねることもできなければ、無駄なプライドにより直接、願いを乞う事もできぬ愚か者からの頼まれ事だ」
「これなのだが―――」と懐に仕舞っていた書簡を取り出し、後ろに振り返ったムウへと手渡す。補足の言葉により、察しのよいムウは差し出し人が誰なのか判明したのだろう。眉間に皺を寄せ、面白いほど嫌そうな表情を浮かべて、書簡を止める紐を解く。
彼らが何故こうまでも不仲なのかはシャカの知るところではないが、一度じっくりと二人の意見を聞いてみたいとも思うシャカである。
「……まったく。読めたものじゃないですね、相変わらず支離滅裂で汚い字だ。ぜひ、あなたからアイオリアに身体ばかり鍛えてないで、頭と書の腕の方も鍛えたほうがいい、とお伝えくださいね。頼みましたよ、シャカ」
吐き捨てるように言い、書簡に目を落としながらも、ムウは規則的に階段を降り続けた。
「そんなことは『君が』『君の』口で直接伝えたまえ、私は伝書鳩ではない」
「面倒なんですよねぇ、彼。どうにも性に合わなくて」
「おや、そうかね?アイオリアも同じことを口にしていたな。案外、気が合うのではないのかね、君たちは」
「シャカ……お願いですから。冗談でも、そんな風に仰るのはやめてくださいよ。蕁麻疹が出ます」
至極真顔でムウが告げるものだから、シャカは可笑しくなって笑った。なぜなら、アイオリアにも同じことを言って、今のムウとほとんど同じような反応をアイオリアもしたからだ。本質は面白いほどに彼らは似ているのだと、図らずも証明したようなものだった。
「もう……まったく、私で遊ばないでください、シャカ。しかし、余計な手間をかけさせてくれますね、相変わらずあの男は。今から徹夜で用意するにしても丸二日かかりますよ」
まるでアイオリアの顔が手紙に浮かんでいるかのように睨みつけならが、ムウは毒吐いていた。
「かまわんよ、ゆっくりやればいい。出来上がった頃に連絡してくれれば、また訪ねるが」
ムウの機嫌が底辺に落ちたところでシャカなりに気を遣って申し出る。
「あなたが?わざわざ二度手間を掛ける必要など、ないんじゃないですか。どうぞ、このまま滞在してください。手っ取り早く仕上げますから。そのほうが私も話し相手ができて、いいですし」