Hepatica
3.
―――ムウを縛るようなこの土地から、ムウを解放することはできないだろうか。
ムウが用意してくれたベッドの上で、夜着に着替えることもせず、横になってからどれだけ時間が過ぎたのか。
どこでだって休めるのだから……と辞退したにもかかわらず、ムウが用意してくれたのは恐らく、ムウが普段使っているであろう寝室。無駄な装飾品の類は一切なく、随分と殺風景な部屋だった。
ごろりと寝返りを打ったシャカは、腕を枕に何度も考えては打ち消したことをもう一度考えた。聖域を出た理由さえも訊ねていないというのにバカなことを考えてしまう愚かさに笑ってしまうほどだ。
別にこの土地がムウを縛っているわけではないこともわかっている。問題は聖域にある。その問題が解決しない限り、ムウはここから離れることは決してないだろう。
如何なる理由だろうともムウの決意は固く、揺ぎ無いものであり、ムウ自ら聖域に戻ることはそれこそ聖戦が始まらない限りないだろうということも。
「それでも……」
それでも、ムウをこの場所から引き離したいと思ってしまうのは自分勝手な思い込みと我侭な願い。
むくりと起き上がったシャカはムウの気配を探る。暖炉のある部屋でムウの気配を感じ、案内された時と逆の順路でそこに向かった。
そっと扉を開けるとムウは暖炉の前に敷いた毛布の上で、膝を抱えるようにして床に座りながら時折爆ぜる炎をじっと眺めていた。実際は炎を見ているわけではなく、恐らく思案に耽っているのだろう。シャカが入ってきたのにもムウは気付かない風だった。
「……邪魔をするが?」
「!?―――驚いた、いつからいたんですか?」
突然掛けられた声にビクッと身体を小さく跳ね上げたムウは振り返ると、苦笑いしながらも「どうぞ」と返した。
「とっくの昔にお休みになられていると思っていました」
「私もだ。ここでは君は休めないのではないのかね?」
すとんとムウの横に座り綺麗に足を組むと、ムウが穏やかに微笑んだ。
「そんなことはないですよ。ここで暖炉の火を明かりに毛布に包まって本を読みながら、いつのまにか寝てしまうことなんて…しばしばあります。それにしても、こんな時でも相変わらず姿勢がよろしいのですね、あなたは。疲れませんか?」
いつもの瞑想するときの姿勢でシャカにすれば何時間だって保てるし、寧ろ心が落ち着くというものだったから、ムウの言葉は心外だった。
「それが当たり前のように過ごしてきたから…疲れたりはしない」
「そうでしたね。あなたはいつもそうだった。だからでしょうね……今日は特に昔を懐かしんでしまいます」
ムウは抱え込んでいた膝を伸ばしたあと腹這いになり、ごろりと寝そべった。
「捨てたはずの過去なのに……優しい記憶が次から次へと蘇ってくるんです。監督者が寝静まったあとにこっそりとベッドから抜け出して、よくこんな風に床で寝そべったり、座り込んだりして皆で秘密を打ち明けあったりして……?」
組んでいた足を崩したシャカはそのままムウの背中の上に頭を乗せたのでムウは僅かに驚いたようだった。
「そう、こんな風に。私はいつも君を枕にしていたな?」
「ああ……そうでした。あなたはいつも私の上に頭を置いていて……何時の間にか眠っていて」
「君たちが秘密話に花を咲かせている頃、私はね……君の記憶にある花園を視ていたのだよ。色とりどりに咲く小さな花が群れをなして一面を鮮やかに彩っていた……私はその光景が好きだった。だが……もう、今は視えない。残念だ」
透明な青い空とどこまでも広がりを見せる花々の絨毯。緩やかに吹く風に踊るように舞う蝶々たち。そこにはムウとその小さな手を握り導く、優しい藤色の瞳をした美しい人の姿もあった。
「あの世界を視ていたなんて……知りませんでしたよ。盗み視るなんて、あなたも人が悪い。あれはね、シャカ。私の記憶というよりは私にとって親ともいうべき大切な人から受け継いだ記憶なんです。私の遠い祖先が暮らした桃源郷のような世界。いつかその人と共に行けると信じていた……あの頃は」
「今は信じていないのかね」
「……私はもう、信じることを止めたのです。裏切りという言葉を知ったあの時に」
ムウの背中の上に乗せていた頭を起こし、ムウを見る。隠すように顔を両腕に伏せたままのムウから滲み出るような苦悩をシャカは感じ取った。
ムウの出奔により始まったかのように見えるムウと聖域との対立……教皇との確執も本当は違う真実があるのだろう。原因があっての結果なのだ。
「シャカ、私は―――あなたでさえも信じないと……決めたのです」
震えるような小さな声がシャカの耳に届いた。
頑なでありながら、恐れているようにも感じられた。シャカはそっと手を伸ばし、ムウの背中に触れる。
「君がそれを決めたことも、閉ざされた世界で生きていくことを選んだことも、私は反対しない。それでいい――。それにムウ、私に心を許してはいけない…私はきっと、君を裏切ってしまうから。でも、私は君を信じる……君は私を裏切ったりしないと思うから。いつか君に……私の花園を見せよう」
ムウの背中を優しく撫でたあと、シャカは静かに立ち上がった。
「私は戻るとするが、あのカップは君に預けたままにしておく。また馳走してくれると嬉しい」
「シャカ、待っ……」
ムウは驚いたように立ち上がり、引き留めようと伸ばした手をギュッと胸の前で握り締めた。
ムウは左右に首を振るといつものように不思議な笑みを浮かべた。
「……春になれば、ここら一体にも小さな雪割草が咲いて、彩り豊かな景色を見せてくれます」
「見頃になったら、教えてくれるとありがたい。選りすぐった紅茶を手土産に訪ねよう」
右手を差し出すとムウもおずおずと手を伸ばし、シャカの手を握った。確かな温もりをその手に感じながらシャカはうっすらと瞳を開くと、そこには今にも泣き出しそうになりながらも笑顔を手向けるムウを見た。
「こういう時ばかり、貴方は瞳を開いて……本当にずるい人ですね。抱き締めてもいいですか?」
こくりと頷いたシャカをムウは引き寄せてぎゅっと抱き締める。トクンと静かに打つ胸の鼓動を確かめるようだった。
「いつか……見せてください。貴方の花園を」
「ああ。いつか、きっと」
時が来れば雪が溶けてHepaticaが草原を覆い優しい春の訪れを告げるように、ムウがシャカの花園を訪れる日は来るのだと、ムウの温もりを感じながらシャカは思う。
その時はきっと―――花は見頃。
乱れ咲き、沙羅双樹の花弁が空を覆う。
残酷で、何よりも美しい記憶としてその光景はムウの心に焼き付けられるのだろうと。
Fin.