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水底【２】

　頭が痛い。
　奥の奥から、絶え間ない鈍い痛み。
　賢木は荒い息をつく。
　全身を覆う倦怠感と熱。
　首筋を汗が伝う。
　椅子に座らされ、手を後ろで縛られている。
　ご丁寧に足まで一つに纏められ、体の自由はない。
　熱の為に朦朧とする意識の中で、賢木は目の前に立つ女を睨みつけた。
　皆本に似てると紫穂に評されたその女は、悠然と髪を掻き揚げる。
　次の瞬間には、その姿はまったくの別人へと変貌した。
「『黒い幽霊の娘』……!!」
　賢木の呻くような言葉に、『黒い幽霊の娘』は満足そうに口元を歪めた。


　まったく、と賢木は一人つぶやく。
　蕾管理官が急な出張とはついていない。
（ウイルスのこと、聞こうとおもったんだけどな）
　バベルの医務室。
　慣れ親しんだ白衣に腕を通しながら、賢木は鏡で自分の顔をチェックする。
　今朝のような荒んだ目では、心配性の親友が何を言ってくるか。
　多少、顔色は悪いが、何とか普段通りには戻っている。
（この程度なら生体コントロールで……）
　悪い顔色も戻してしまおうかと思っていると、携帯が震えた。
　着信者は『東原　望』とあった。

　インフルエンザウイルスが蔓延した時、東都大の医学部がその対処に当たった。
　大学側の面子の問題か、バベルに応援要請が来たのは随分と事が進んだ後だった。
　賢木は相変わらずの大学の体質に、腹を立てつつも現場に急行した。
「賢木先生」
　控えめに掛けられた声に振り向けば、女性の看護師が立っている。
　躊躇いがちに微笑んだその表情に賢木の心臓が跳ねた。
（皆本……？）
　よく似ていると思った。
　顔立ちは似ているということの程もないが、その優しい雰囲気が皆本を思わせる。
「おじい様がお世話になりました。お礼もしていなくて……」
「は？おじい様？」
「東都大の外科部で教授をやってる……」
「ああ！」
　賢木は思わず大きな声を上げる。
　薫と紫穂を連れて釣りに出掛けて、会いたくもないのに会ってしまった教授のことを思い出す。
　動脈りゅう破裂で海上での手術を強行した。
　紫穂のサポートがなければ恐らくは成功しなかっただろう。
「私は孫の東原　望といいます。医者は無理でしたが、今は看護師をしています。今回、賢木先生がいらっしゃる聞いて、せめてお礼をと」
「いや、医者として当然のことをしたまでです」
　思いっきりいい笑顔でそう言えば、望は頬を赤らめる。
（いや～こいつはラッキーかも）
　知らず知らず賢木の顔がにやける。
「あの、今回は一生懸命サポートしますので、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
　賢木は言いながら白衣を翻す。
　その横顔は患者を想う医者のものだった。
　息をつく暇もないほどの三日間、望はその言葉の通り賢木をサポートし続けてくれた。

　賢木は着信者をもう一度確認すると、電話に出る。
「もしもし？」
「あっ賢木先生」
　戸惑うような望の声。
　何故か頭の奥が疼く。
「どうかしたのか？」
「あ、あの、おじい様が」
　また、倒れたのだろうか。賢木は望の言葉を待つ。
「こんな事、賢木先生に相談していいのか分からないんですけど……」
「うん？」
「変な人達がおじい様の研究室に出入りしていて、それで」
　教授は『普通の人々』とも繋がりがある、と噂に聞いている。
　賢木はそいつらの事かと思う。
「漏れ聞こえたんです……ブラ、何とかって。賢木先生、何かご存知ないでしょうか」
　思わぬ言葉に賢木は一瞬、息を呑む。
（ブラって、『黒い幽霊』のことか？しかしあの教授が何で奴らと……）
「あの、賢木先生？」
　心配そうな望の声に賢木は躊躇った後、慎重に口を開いた。
「会わないか。ちょうど、美味しい店を見つけたんだ。よかったら奢るよ」
「え？」
「食事しながらの方が、話しやすいだろ望ちゃんも」
「……あ、あの喜んで」
　約束の時間を告げて、賢木は電話を切った。
　その脳裏に皆本に似た優しい笑顔を浮かぶ。
（本当に『黒い幽霊』なら何とかしねえとな）
　賢木は着たばかりの白衣を脱ぐと、足早に医務室を後にした。


「いったい、何時から……？」
　賢木はかつて『東原　望』だった女性を視線で追う。
　白い部屋。
　慣れ親しんだ消毒薬の匂い。
　ここは東都医大の一室。
　しばらく使われていないのか、部屋の隅には埃が溜まっている。
　『黒い幽霊の娘』は置かれていた小さな机に手を置く。
　その横には焦点の合ってない目をした老人が立っている。
　東都大の教授だ。
「何時から、俺は……催眠に」
　息をするのも辛いのか、賢木の言葉は途切れ途切れだ。
「『東原　望』と最初に会った時からよ」
　『黒い幽霊の娘』は抑揚の少ない言葉で応えた。
　机に置かれた注射器を指で転がす。
「体、辛いでしょ」
「っ……」
　遠のきかける意識を賢木は必死に押しとどめる。
「高超度の超能力者を『支配』するのは私でも難しいわ。その人間の弱み、隙をみつけないと」
　でも、と続ける。
「多少の意識の操作なら問題ないわ。あの姿、気に入ったでしょ？貴方の親友を真似てみたの。思った以上に心を許してくれて嬉しかったわ。おかげで催眠もやりやすかった」
「くそっ」
　賢木は歯噛みする。
　その様子に『黒い幽霊の娘』は視線を外す。
　教授、と呼ぶと老人は注射器を手にする。
　その中にはまるで固まりかけた血のような色をした液体が入っている。
　賢木の背中に悪寒が走る。
「これはね、旧日本軍が開発したウイルスなんですって。このご老人の父親が開発して、そのサンプルをずっと隠し持っていたみたい」
　教授が、注射器を手に賢木に近付く。
　何の感情もその顔には浮かんでいない。
　賢木の喉が大きく鳴る。
「お父様が、それを欲しがって。でもこの人、絶対に渡そうとしなかったから、『支配』させてもらったの」
　『黒い幽霊の娘』の声は相変わらず抑揚が少ない。
　今までこちらに『遊び』を仕掛けてきた『黒い幽霊の娘』はもっと感情が荒くなかったか。
　賢木はふと思う。
　今の彼女が『ファントム』ではなく『ミラージュ』だというのは賢木には分からない。
「どんな物か知りたいでしょう？」
「はっ、随分と親切だな」
　強気で吐いた台詞は語尾が震えた。
　教授の萎れた手が褐色の腕を掴む。
　どうにもならない、恐怖が賢木を支配する。
　やめろ、と叫びだしたくなる。
「このウイルスの発病には、二度の投与が必要なの。一度目はインフルエンザウイルスの抗体だと言って、すでに打ってあるわ」
「まさか……その為に」
　ええ、と応える。
「違和感のない状態なら、催眠も無理なくかけられるもの。インフルエンザウイルスを蔓延させたのは『黒い幽霊』よ」
「ふざけるな！」
　ガタン、と椅子が音を上げる。
「下手をすれば何十人という死人が出たんだぞ!?」
　激昂する賢木に『黒い幽霊の娘』の仮面越しの視線が向けられる。
「お父様の望みよ」
「な……に」
　賢木の視界がグラリと揺れる。
　熱がすでに四〇度を越えているのか。
「とても熱に弱いウイルスなのに感染すると発熱してしまうの。今の貴方のように。だから、普通は死滅してしまう。でも」