京浮短編集
春の夜に歩くこと
カツカツ、と部屋の窓が外から叩かれた。その時浮竹は一通りの勉強を終えてとっくに寝台に入っていたのだが、やっとの思いで瞼を持ち上げて音のした窓へ寄った。
障子を開けると思ったとおり、外の木にしがみついた京楽が唇を動かして
「開・け・て」
と言った。また抜け道が塞がれたのだろうか。
ともかく眠い目を擦りながら窓を開けると文字通り京楽は転がり入って、浮竹が障子を閉めている間に勝手に火鉢の上の鉄瓶から湯冷ましを飲んだ。
「お前、今日はなんだか良い匂いがするね」
立ったままの京楽の背後で、浮竹がそう言って彼の小袖の袂を取って鼻を押し付けた。外遊びから戻るとさせているような白粉や酒のそれとは違う、ふぅわりとした少し甘いような匂いだ。
「梅かな」
自分の肩に鼻を寄せて嗅いでみて、京楽はポツリと言った。
「夜に花見か…抜け出すのは感心しないけど、さすが京楽だな」
「な、何がさすがなの?」
「梅園に行ってきたんだろう?昼の梅も悪くはないが、本当の良さが分かるのは夜の梅だろう って」
学院の東門から暫く行ったところに梅園がある。先に上級貴族の某が隠居の慰みに作ったらしいが、それが大きくなって今ではちょっとした春の行楽地になっていた。
冬が終わり、風が若干の冷たさを含む以外はもうすっかり春で、件の梅園では花も人も賑やかだという。
浮竹も一度見てみようと二、三日前に一人で出かけていき、茶屋で休憩した時に隣にいた男の客がそんなことを言っているのを聞いたのだった。
「つまり夜の闇で昼は忘れがちな梅本来の香りを楽しむ、そういうことだろう?俺はそれを聞いた時、なんて風雅なんだろうと思ったよ」
「それで?」
「それがさらっとできるお前はすごいな、とそう思ったから言ったんだ」
そうかい、と京楽は困ったように笑った。その男客が言ったことは、半分は間違っていない。確かに浮竹が解釈した通り、柔らかで儚い梅の香りは夜に聞くものと自分も思っている。
「京楽?」
「その客、女連れじゃなかった?」
「…そうだったけど……それがどうかしたか?」
残りの半分。それはさっき自分が仕掛けに行って、止めてきたことだ。通りかかったその梅園の香りに誘われて中へ入り込み、香りに包まれている間にどうでもよくなってしまった。
その男客は、成功したのだろうか。そう思ったら訳もなくおかしくなってきて、その場にしゃがみこむとくすくすと笑い出した。
「京楽?なんなんだよ、もう」
「ごめんごめん、うふふ」
笑い止まないまま、傍らで頬を膨らませる浮竹の手を取る。
「花が散らないうちに一緒に行こう、きっと浮竹も気に入にいるよ」