水中部屋
「俺って身長低いのかな」
紙と文字で埋め尽くされた部屋で、宵風は猫のように丸まっている。
丸まっているというか、体操座りをしているのだけど。それは行儀がいいと猫いうより、カチンコチンに固まった氷のようだ。
宵風はわずかに顔を上げて、俺を見た。
「今朝、雪見さんと買い出しに行ってさ」
ショーウィンドウの中で踊るマネキン達に、ガラスに映る小柄でやせ細った少年と、チンピラみたいな大人。ガラスとその向こう側が曖昧になって、くらくらした。派手な服を鼓舞するマネキンと、地味な服をただ装着しているだけの自分。どっちが現実か、よく分からなかった。
そんなことを考えていると、いきなり雪見さんが頭を叩いた。
『おまえ、ほんと小さいな。ちゃんと食ってるよな?』
それがあまりにも俺の考えていることと違ったから、呆気にとられた。だけど、それを感づかれるのも癪だったから、無感情に返した。なんて言ったかは覚えていない。それこそどうだっていいことだ。
「そのとき、言われた」
一緒に床に座り込んで、足だけ投げだす。宵風からは離れて、でも互いの存在が感じることが出来る距離だ。
太陽の光がカーテンから漏れ出して、それを受けたほこりたちが浮かび上がる。まるで水の中みたいだ。吐き出した二酸化炭素が泡となり、空を目指して登って行く。
「わからない」
静寂の中、突然吐き出された大きなあぶくに、戸惑う。すぐに、それが一番初めの問いの答えだということに気がついた。
ずっと考えていたのだろうか。そんなことを思ったら、体の血管中に電流が流れたみたいに、体が硬直した。ついでに胸が空気で詰まったように苦しくなって、ゆるく吐き出した。肺が萎んでいく。
「壬晴は困るのか」
「別に。困ってるわけじゃないけど」
むしろ、背が低い方が楽だった。見なくていいものも見なくていいし、特段目立つこともない。身長なんて何センチだろうがどうだっていいし、来年どれくらい伸びようがどうだっていい。
でも
(どう、見えるんだろう)
触れられた頭。
宵風と同じくらいの身長。
高く、見上げる自分。
(君には、どう見えるの)
ずっと高くから見下ろしていて、怖くはないの。
「牛乳飲めばいいって、雪見が言ってた」
「それ、よく言うよね」
「そうなのか」
「あと、ニボシとか」
「ニボシか」
「うん」
足をたたんで、横に体を倒した。木で出来ているくせに、固いフローリングは森の匂いなんかいっさい運んでこない。光に照らされて、月のように反射するだけだ。
宵風から、時間の先を考える言葉など聞いたことがない。それは意図的に考えないようにしているのではなく、彼の中ではすでに未来など存在しないかのようだった。存在しないから、彼は壬晴の身長が伸びる姿など思いつきもしないのだ。
彼にとって、時計の秒針が一つ進むその瞬間だけが、彼が生きている時間であり、存在そのものだ。
(それが普通じゃないか)
寂しいなんて馬鹿げてる。
宵風が宵風のことだけを考えるなんて、狡いとさえ思ってしまう。
(馬鹿みたいだ)
くだらない。本当にくだらない。勝手に宵風のことを引き受けたのは壬晴自身で、自分のことだけを考えていいといったのも壬晴だというのに。
耳を塞いで、目を閉じる。
もう何も考えたくなかった。無欲でいたかった。考えれば考えるほど、自身のおこがましさに嫌気がして、ほんの少し先の未来へ思いを馳せるだけで、心臓に鈍痛が走った。
しばらくして宵風が立ち上がる気配を感じたが、壬晴はカーテンから漏れる薄明かりに身を委ねて、まどろみの中に落ちていった。