水中部屋
「おい、壬晴。壬晴。いいかげん起きろ」
張り付いてしまったかのような重い瞼を無理やりこじ開けると、パチンコ屋の店員みたいな不良が覗き込んでいた。
頭はガンガンするし、目覚めは最悪だ。
「なに」
「なに、じゃねぇよ。寝るんだったらソファいけ」
風邪ひくだろうが、なんてこの男には珍しい言葉を口にして雪見はさっさとパソコンの前へと戻って行った。
しょうがないので上半身を起こして辺りを見渡す。部屋には、冷え切ってしまったお弁当が入ったコンビニの袋が、世話するのを投げ出されたみたいにポツンと転がっている。肩にはすでに自分の体温で温かくなった毛布が掛かっていた。
仕事に出ていた彼は、これからが本番とばかりに、光る画面を一心に見つめている。眼が悪くなりそうな仕事だ。
「宵風は?」
「そこで布団かぶって寝てる」
横目で雪見が見た方向は、壬晴の後ろ。つまりは窓際だ。振り返ると、宵風は布団にくるまって、眠っていた。寒かったのだろうか。珍しいことにカーテンは完全に開いていて、布団は二重になっている。
寝ている顔は、静かで穏やかに見えた。まるで死人のような寝方なのに、顔色がやや血色づいていて、微かに上下する体が生きていることを伝えていた。
(もうこんな時間か……)
空の頂まで登っていた太陽はすでに沈みかけていて、果てしないほど遠くから澄み渡る光の波長は、赤だけを残していってしまう。
「もー兄さん、仕事の前にちゃんと片付けないとダメじゃないっすか」
この声、特徴的な話し方、知ってる。雪見の妹、和穂のものだ。雪が降り積もった朝のように静かな部屋は、彼女の声によってゆっくりと溶けだしてゆく。
「あ、壬晴くん。起きたっすか?」
「和穂さん。おはようございます」
彼女は時折、兄の雪見のところに来ては差し入れや愚痴などを持ってきては、竜巻のように去っていく。
「今日は何をしに来たんですか」
ズボンの皺を伸ばしながら立ち上がった。バネを抑えつけたみたいに、体が縮こまっている気がする。
「宵風くんや壬晴くんに、ちゃんとと食べさせているかチェックしにきたっす」
「余計なお世話だっての。しかも宵風の奴……」
「宵風くんの食べたいものも把握してないなんて、保護者失格っすよ」
和穂が来れば、この二人はじゃれあいとも呼べる兄妹喧嘩を繰り返す。それは隠の世からはかけ離れた緊迫感のないもので、純粋にこの二人の仲の良さを覗かせた。
「それなに?」
このままでは喧嘩が真夜中まで続きそうだったので話をそらす。和穂が手にかけている白いビニール袋。いつものように差し入れだと思う。
「これ、気になるっすか? 」
彼女は満面の笑顔で、何か当ててみてと問いかけた。そんなこと言われても、さっぱりわからない。
「にぼしだろ。そんな大量のにぼし持ってきても食えねえだろうが」
「なんで答えバラしちゃうんすか! それに、宵風くんなら絶対食べられるっすよ」
宵風の食欲に対する執着を、誰よりも知っているはずの雪見はたじろいだ。
彼女はビニール袋からパンパンに入ったにぼしの袋を取り出す。こんなにも多くのにぼしが、少し前まで海を泳いでいたなんて少し不気味だ。
いや、そんなことより―――
「にぼし?」
あれが夢でなければ、確かに言ったはずだ。
宵風に。
「そうそう、いきなり兄さんから電話がきたときは驚いたっすよー」
「玄関先にぼんやり立っててよ。にぼしはあるか、とか急に聞いてくるんだからな」
「腹ペコ宵風くんのために、お届けにきたんすよ」
「その頃にはこいつ、寝てるし」
雪見は怒っているというより、呆れたように未だに起きる気配のない宵風を一瞥して、またパソコンに向きなおった。
そういえばあのとき。眠りに落ちる直前、宵風が立ち上がった気配がしたような気がした。立ち上がったのはそのためだったのだろうか。
(そんなこと、しなくていいのに)
他愛のない会話だった。それでも壬晴は想っていた。宵風が一瞬でも先のことを考えてくれないか、なんて淡い期待を抱いて、言葉を紡いでいただけだ。
「俺、食べていいかな。にぼし」
「そりゃもちろん……。でも、珍しいっすね。壬晴くんからそんなこと聞けるなんて」
和穂から大きなにぼしの袋を渡される。袋を破いたら、魚が部屋に飛び出していきそうだ。
「そうそう。おまえはカルシウムとって、背ぇ伸ばした方がいいぜ」
いつか、なんて気にかけないくせに。
「もしかして、背が低いの気にしてたんすか?」
いつか、の俺なんか、見る気もないくせに。
それなのに、この一瞬のために、宵風は動いた。背が低いのを気にしているなんて、誤解もいいところだ。不自由なんか、全く感じてなかったというのに。
「……少しだけ」
パン、と空気が抜ける音がしてニボシ達に空気が行き渡る。にぼしたちに動く気配はなく、部屋にあふれ出てはこなかった。