理想郷に一人きり
2.
校舎のガラス越しに朝の太陽の光が差し込み、円に沿ってカーブを描く廊下を白く照らしている。陰もないその明るさは、コートの黒い裾を翻すカイトの姿をより一層異質な存在に際立たせていた。
ここに他の誰かがいたならば、カイトは不審者として真っ先に通報される身分だ。しかし幸いなことに、休み時間中廊下にたむろしていた生徒たちは、先ほどのチャイムに従って各々の教室に引っ込んでしまっていた。教師も同じく。なのでここにカイトを邪魔する人間は誰一人としていない。
「――はい皆静かに。先週やった小テストのプリントを返すよ。出席番号順に名前呼ばれたら前に出て来てね。全員に行き渡ったら答え合わせをするからね」
カイトの左側、廊下と教室を隔てる壁の向こうでは、教師が一人一人名を呼んでプリントを返却していた。プリントを教師の手から受け取ったらしい生徒は点数に一喜一憂し、付近のクラスメイトと結果がどうだったか小声で話し合っている。
「……げに、東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ、えーと、猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のう、……う、き、ふ、し、をも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きを、も、悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、……」
その隣の教室で女生徒が音読するのは、著名な短編小説の一節。文体に不慣れらしく、たどたどしい言葉遣いでところどころつっかえている。それでもどうにか自分の分をやり遂げ、次の生徒にターンを渡した。
更に歩を進めてみれば、
「これから皆さんには、タマネギの麟片葉と酢酸カーミン溶液を使って、各班ごとに細胞の観察をしてもらいます。ゾウリムシの細胞と比べて、どこが違うかも注意して観ましょう。それと、この酢酸カーミン溶液なんですが、前回も話した通り、皮膚に付くと染まってしまって洗っても取れなくなります。取り扱いにはくれぐれも注意して下さい」
ここの教室は理科室のようだ。教師の号令と同時に、用具の立てるやかましい物音とがやがやと話し出す生徒たち。
「……うお、まじで指が赤く染まっちまった」
事前の注意事項も空しく、溶液で指を染めてしまった生徒がいたらしい。その声に引き続いて扉から漏れる、数人の笑い声。
何とも楽しげな生徒たちの笑い声に、カイトははっと我に返った。そして気づく。扉の向こうで繰り広げられている授業に聞き入り、知らず知らずのうちに足を止めていた自分に。
「くだらん」
短く吐き捨て、カイトはその扉の前を足早に去った。一瞬とはいえ無駄に費やした時間を取り戻さんとばかりに。
わき目も振らず歩く姿は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。――本当にくだらない。学校など絵空事だ。フィクションだ、と。
カイトもハルトも、学校にはとんと縁がない。ハートランドでそれぞれの仕事に就いてからはなおさらだ。兄弟の周囲は一癖も二癖もある大人だらけ。同世代の子どもたちのような生活は望むべくもない。学校に通うのは夢のまた夢だ。天城兄弟にとっての学校とは、現実味のない遠い世界、あるいは書籍やテレビ番組の中の一舞台でしかなかった。
ある物話では動物の姿をした登場人物がたわいのない暮らしをし。別の物語ではスポーツで日本一を目指し。またある時は、一人の人間を大人数で取り合ったり、生徒たちが徒党を組んで異形の物と戦ったりしていた。……最後辺りはカイトにとっては多少他人事ではないかもしれない。カイトが属する陣営が闘うのは、異世界「アストラル世界」からの使者と、それが持ち込んだナンバーズと呼ばれるカード共なのだから。
この壁一枚、扉一枚挟んだ先にいる人々は知らない。この世界に報復しようとしている異世界の住人たちの存在を。それらに対抗すべく、ハルトが身を削っていることも。知らないまま、理想的な環境で平和に暮らしている。
人々には分からない。身を削るハルトの苦痛を。仕事に向かう彼を見送るしかないカイトの苦悩を。兄弟が背負う物の重さを。――何一つ分からない。分からなくていい。分かってたまるものか、とさえカイトは思う。
こんなことを言えば、ハルトにはまた嫌われるかもしれない。だが、一人の人間と九十九人のデュエリストの魂を天秤に掛けることは罪か。人類全ての平和よりも弟一人の幸福をひたすらに願うことは罪なのか。
ナンバーズハンターになると決めた時に割り切ったはずの思いが、心の内で幾度となく混ぜ返されては浮上する。きりのない自問自答にカイトが陥りそうになった、まさにその時だ。
廊下内にだしぬけに響き渡った凄まじい破壊音。コンクリートの壁を伝う、突き破られ崩されたような振動。カイトはすぐさま状況を把握した。こんな破壊活動を行える存在は、カイトの知る限り一つしかない。
「オービタル、こんなところで余計な騒ぎを起こすとは……!」
九十九遊馬からペンダントを回収するのに、こうまで手こずらされたのか。公共の場で戦闘モードにならざるを得ないほどに。ならば状況は一刻を争う。何としてでもあのペンダントを入手して分析しなければならない。
先ほどの異常音に教室内がふっと静まり返る。それも一瞬のことで、彼らはたちまち不秩序に騒ぎ出した。ここに留まったままだとすぐさま見つかってしまうことだろう。誰かが廊下に出てくる直前に、カイトは手近な昇降口に駆け込んだ。
耳を澄ませば、教室や廊下からのざわめきはどこか遠くなる。代わりに近くなるのは、壁や床が無残に破砕される音。オービタル7のドリルが奏でる機械音。そして、何者かがオービタル7から懸命に逃げる足音。それらが段々と階上へと移動していく様子がカイトには察知できた。
先回りしよう。彼らが最上階に上がり切るまでに。カイトは全速力で階段を駆け上がった。
階段を昇りつつカイトは思う。自分の生きる現実はこれだ、と。ここのような幸せな世界ではない、この悪夢にも似た非日常こそが自分の生きる世界なのだと。
――ハルトを救い出してみせる。いつか必ず、悪夢のようなこの現実から。
階段の突き当たりに屋上へ続く扉が見える。カイトはその扉に手を掛け、力一杯押し開けた。
(END)
2011/11/28