僕ノ専属
宮ノ杜家の屋敷の玄関先、弧を描く階段の下だった。
「あ、ねえねえ、はる吉!」
呼び止められると、
「はい、何でしょうか、博様?」
はるは、すぐにそちらを振り返って、そそくさと近づいて行こうとする。
「なっ! ちょっと待ちなよ」
雅は一瞬、ぎょっとし、それからすぐに、声を上げて彼女を呼び止めた。きょとんと眼を瞬き、はい? と彼女は、やや素っ頓狂な声を漏らす。その向こうで、彼女を呼んだ博もまた、眉を寄せて、なんだよー、と文句のような言葉を投げて来た。
まず、雅は博を睨んだ。
「な、なんだよ?」
「はるは、僕の専属なんだって、忘れてるんじゃない?」
「えー? 忘れてないよ、別に」
「専属使用人って、特定の人間の世話をする使用人を言うんだって分かってる?」
「分かってるって」
「じゃあなんで、気安く呼ぶのさ? 用を言いつけるなら、千富かたえにしなよ」
「けど、千富だって父さんの専属じゃん? でも、いつもオレたちのことも色々やってくれるじゃん」
「千富のことなんて知らないよ。それより、僕の専属に勝手に物を言いつけないでよね」
博は、なんだよ、とまた突っかかるような言葉を漏らしているが、大人しくなったのでまあいい。
それから、おろおろして二人のやり取りを見ていたはるに、目をやった。さらに、一歩彼女へ近づく。
「そもそも、お前もなんで博にほいほい愛想よく返事してるのさ!」
「え、で、でも、呼び止められたものを、無視はできませんし」
「無視すればいいんだよ。お前は僕の専属なんだろ?」
「それは、確かにそうなのですけど。でも、博様は旦那様のご子息ですし……」
誰の専属になろうとも、雇い主は、宮ノ杜玄一郎。それは変わらない。だから、その息子たちを無視することは難しいのだと言う。
しかし、雅は納得できない。
「僕だって、同じなんだけど?」
「それはそうですが……」
「それに加えて、お前は僕の専属だろ! つまり、博より僕の方が優先されてしかるべきなんだ。そうだろ!?」
「ええ、それはもちろん、そうなのですが」
「まーさーしー」
雅とはるの間の僅かな空間に、ひょいっと顔を突っ込んできたのは、博だ。
「そんな意地悪言ってると、フラれるぞー?」
「はあ?」
何を言っているんだ。意味が分からない。
「なんで僕がこいつに振られなきゃならないのか、全く意味が分からないんだけど。それより、なんで振られるわけ? 普通は好きな女とかに告白して断られること言うんだよね? だったら僕には全然当てはまらないんだけど」
「えー、そうかなあ?」
理屈を並べ立てて否定する雅に、博は人を食ったような笑みを浮かべている。
腹が立つし、苛立ちが増す。
「あ、あの、雅様」
「なに!」
まだ、おろおろしながら、はるが声をかけてくる。
「そろそろお出になりませんか? 自動車も外に待たせていますし」
「誰が待っていようが、知らないよ」
自動車の運転手だって、宮ノ杜で雇っている人間だ。いくら待たせても文句など言わせない。
しかし、はるは困った様子で、でも、とか何とか続けている。
「もー、雅はすぐにそうやって意地悪なこと言うんだからさ」
「うるさいなあ、博は。少しは黙っててよね」
どうしていつも、周りの人間は、自分を、自分たちを放っておいてくれないのか。
「大体さ、専属専属って、自分のものにしたような言い方するけど、別に何もかも全部がお前のものってわけじゃないんだからさあ」
「博には関係ないだろ! もう行くよ!」
「えっ、あ、雅様――」
雅は勢いよく扉を開けて、さっさと玄関を外に出る。門の近くで自動車が彼を待っていた。
しかし、ふと気がつく。振り返る。
扉は閉まり、開かれる気配は全くない。何だか再び胃の腑の辺りに違和感が表れる。
がた、と音を立て、扉がほんの僅かばかり、指一本が通るかどうか程度、中途半端に開いた。
「いいよいいよー、雅だって子どもじゃないんだし、車まで一人で行けるでしょー」
「で、ですが」
中から、そんな会話の声が漏れて来た。
ああ、本当に、腹が立つ。
扉の取っ手を掴んで、思い切り開ける。中に向かって開く扉で――どんっと音を立てて、何かがぶつかった、と同時に、
「ふぎゃっ!!」
珍奇な悲鳴が上がった。
中を覗くと、額を押さえてその場にしゃがみ込もうとするはると、目が合った。
少し涙を浮かべた双眸が、雅を睨むように見上げた。
「なに、してるわけ?」
「ひどいです、雅様……。急に戸を開けるなんて」
およそ予想はできたことだったが、やはりそうだったらしい。
「お、お前が悪いんだろ!」
「何がですかあ?」
額を押さえながら、恨めしげにまだこちらを見る。
「ぼ、僕の専属使用人のくせに、いつまでも見送りに出てこないからじゃないか」
「う、ううう、だって」
「言い訳はいいんだよ。早くしてよね」
ううう、とまだ呻き額を押さえたまま、はるはやっと立ち上がる。
「雅って本当に、心狭いよね」
博が脇から茶々を入れてくる。うるさいなあ、と睨んでから、はるを見る。ふう、と彼女は息をついた。
「雅様、そろそろ学校へ行かなくては」
「分かってるよ。あーもう、お前もうるさいな」
すみません、と言いながら、今度こそ外へ出る雅の後をついて来る。
陽光の下に出ると、彼女が自分で押さえていた額が、少し赤くなっているのが良く分かる。
「それにしても、博様は学校に行かれないんでしょうか?」
「知らないよ、あいつのことなんか」
振り返りながら、今さらなことを言っている。どうせ、洋行の準備か何かで実家に帰るんだろう。
「それより、お前さ、本当に専属の意味、分かってるの?」
「ええ、勿論です。でも、雅様のお世話だけと行かないこともありますし」
「いいんだよ、僕の世話だけで」
きっぱり言い切ると、はるは少し困ったような顔をする。
当然のことを話しているだけだと言うのに、何だか妙に苛立つ。
「雅様、それはその、何だか嫉妬のようですね」
「は、はあっ?」
「いえ、先日雅様が読んでいらした本、お部屋のお掃除のときにちょっとだけ拝見したんですが」
「勝手に人のものに触らないでくれる?」
「机を拭いていたら、落としてしまったんです。それで、床の上でちょうど開いてですね」
「人の物を落とさないでよね」
主の持ち物の扱いが乱暴なのは、どう考えても駄目だ。申し訳ありません、と彼女は謝るのだが、ほとんどそこに心がこもっていない。
「そこに、嫉妬する男の方が出てたんですけど、雅様のように変な言いがかりをつけたりですね」
「ちょっと! 僕が変な言いがかりつけてるって言いたいわけ?」
「あ、いえ、それは言葉の綾で」
「もういいよ!」
ふんっと鼻を鳴らし、雅は先へ進む。
「お待ちください、雅様。鞄が……」
くるりと、振り返る。
「お前、僕の荷物持っていながら、さっき出てこなかったわけ?」
「出て行こうとしたら、博様に止められてしまって」
「止められたって出てくるのが専属だよね?」
「そうですね、すみません」
慌てて、はるは雅の傍に駆け寄ってきた。
「では、鞄を」
反省の色が見えない気がする。むっつりと押し黙ったまま、雅は鞄を受け取った。
「あ、ねえねえ、はる吉!」
呼び止められると、
「はい、何でしょうか、博様?」
はるは、すぐにそちらを振り返って、そそくさと近づいて行こうとする。
「なっ! ちょっと待ちなよ」
雅は一瞬、ぎょっとし、それからすぐに、声を上げて彼女を呼び止めた。きょとんと眼を瞬き、はい? と彼女は、やや素っ頓狂な声を漏らす。その向こうで、彼女を呼んだ博もまた、眉を寄せて、なんだよー、と文句のような言葉を投げて来た。
まず、雅は博を睨んだ。
「な、なんだよ?」
「はるは、僕の専属なんだって、忘れてるんじゃない?」
「えー? 忘れてないよ、別に」
「専属使用人って、特定の人間の世話をする使用人を言うんだって分かってる?」
「分かってるって」
「じゃあなんで、気安く呼ぶのさ? 用を言いつけるなら、千富かたえにしなよ」
「けど、千富だって父さんの専属じゃん? でも、いつもオレたちのことも色々やってくれるじゃん」
「千富のことなんて知らないよ。それより、僕の専属に勝手に物を言いつけないでよね」
博は、なんだよ、とまた突っかかるような言葉を漏らしているが、大人しくなったのでまあいい。
それから、おろおろして二人のやり取りを見ていたはるに、目をやった。さらに、一歩彼女へ近づく。
「そもそも、お前もなんで博にほいほい愛想よく返事してるのさ!」
「え、で、でも、呼び止められたものを、無視はできませんし」
「無視すればいいんだよ。お前は僕の専属なんだろ?」
「それは、確かにそうなのですけど。でも、博様は旦那様のご子息ですし……」
誰の専属になろうとも、雇い主は、宮ノ杜玄一郎。それは変わらない。だから、その息子たちを無視することは難しいのだと言う。
しかし、雅は納得できない。
「僕だって、同じなんだけど?」
「それはそうですが……」
「それに加えて、お前は僕の専属だろ! つまり、博より僕の方が優先されてしかるべきなんだ。そうだろ!?」
「ええ、それはもちろん、そうなのですが」
「まーさーしー」
雅とはるの間の僅かな空間に、ひょいっと顔を突っ込んできたのは、博だ。
「そんな意地悪言ってると、フラれるぞー?」
「はあ?」
何を言っているんだ。意味が分からない。
「なんで僕がこいつに振られなきゃならないのか、全く意味が分からないんだけど。それより、なんで振られるわけ? 普通は好きな女とかに告白して断られること言うんだよね? だったら僕には全然当てはまらないんだけど」
「えー、そうかなあ?」
理屈を並べ立てて否定する雅に、博は人を食ったような笑みを浮かべている。
腹が立つし、苛立ちが増す。
「あ、あの、雅様」
「なに!」
まだ、おろおろしながら、はるが声をかけてくる。
「そろそろお出になりませんか? 自動車も外に待たせていますし」
「誰が待っていようが、知らないよ」
自動車の運転手だって、宮ノ杜で雇っている人間だ。いくら待たせても文句など言わせない。
しかし、はるは困った様子で、でも、とか何とか続けている。
「もー、雅はすぐにそうやって意地悪なこと言うんだからさ」
「うるさいなあ、博は。少しは黙っててよね」
どうしていつも、周りの人間は、自分を、自分たちを放っておいてくれないのか。
「大体さ、専属専属って、自分のものにしたような言い方するけど、別に何もかも全部がお前のものってわけじゃないんだからさあ」
「博には関係ないだろ! もう行くよ!」
「えっ、あ、雅様――」
雅は勢いよく扉を開けて、さっさと玄関を外に出る。門の近くで自動車が彼を待っていた。
しかし、ふと気がつく。振り返る。
扉は閉まり、開かれる気配は全くない。何だか再び胃の腑の辺りに違和感が表れる。
がた、と音を立て、扉がほんの僅かばかり、指一本が通るかどうか程度、中途半端に開いた。
「いいよいいよー、雅だって子どもじゃないんだし、車まで一人で行けるでしょー」
「で、ですが」
中から、そんな会話の声が漏れて来た。
ああ、本当に、腹が立つ。
扉の取っ手を掴んで、思い切り開ける。中に向かって開く扉で――どんっと音を立てて、何かがぶつかった、と同時に、
「ふぎゃっ!!」
珍奇な悲鳴が上がった。
中を覗くと、額を押さえてその場にしゃがみ込もうとするはると、目が合った。
少し涙を浮かべた双眸が、雅を睨むように見上げた。
「なに、してるわけ?」
「ひどいです、雅様……。急に戸を開けるなんて」
およそ予想はできたことだったが、やはりそうだったらしい。
「お、お前が悪いんだろ!」
「何がですかあ?」
額を押さえながら、恨めしげにまだこちらを見る。
「ぼ、僕の専属使用人のくせに、いつまでも見送りに出てこないからじゃないか」
「う、ううう、だって」
「言い訳はいいんだよ。早くしてよね」
ううう、とまだ呻き額を押さえたまま、はるはやっと立ち上がる。
「雅って本当に、心狭いよね」
博が脇から茶々を入れてくる。うるさいなあ、と睨んでから、はるを見る。ふう、と彼女は息をついた。
「雅様、そろそろ学校へ行かなくては」
「分かってるよ。あーもう、お前もうるさいな」
すみません、と言いながら、今度こそ外へ出る雅の後をついて来る。
陽光の下に出ると、彼女が自分で押さえていた額が、少し赤くなっているのが良く分かる。
「それにしても、博様は学校に行かれないんでしょうか?」
「知らないよ、あいつのことなんか」
振り返りながら、今さらなことを言っている。どうせ、洋行の準備か何かで実家に帰るんだろう。
「それより、お前さ、本当に専属の意味、分かってるの?」
「ええ、勿論です。でも、雅様のお世話だけと行かないこともありますし」
「いいんだよ、僕の世話だけで」
きっぱり言い切ると、はるは少し困ったような顔をする。
当然のことを話しているだけだと言うのに、何だか妙に苛立つ。
「雅様、それはその、何だか嫉妬のようですね」
「は、はあっ?」
「いえ、先日雅様が読んでいらした本、お部屋のお掃除のときにちょっとだけ拝見したんですが」
「勝手に人のものに触らないでくれる?」
「机を拭いていたら、落としてしまったんです。それで、床の上でちょうど開いてですね」
「人の物を落とさないでよね」
主の持ち物の扱いが乱暴なのは、どう考えても駄目だ。申し訳ありません、と彼女は謝るのだが、ほとんどそこに心がこもっていない。
「そこに、嫉妬する男の方が出てたんですけど、雅様のように変な言いがかりをつけたりですね」
「ちょっと! 僕が変な言いがかりつけてるって言いたいわけ?」
「あ、いえ、それは言葉の綾で」
「もういいよ!」
ふんっと鼻を鳴らし、雅は先へ進む。
「お待ちください、雅様。鞄が……」
くるりと、振り返る。
「お前、僕の荷物持っていながら、さっき出てこなかったわけ?」
「出て行こうとしたら、博様に止められてしまって」
「止められたって出てくるのが専属だよね?」
「そうですね、すみません」
慌てて、はるは雅の傍に駆け寄ってきた。
「では、鞄を」
反省の色が見えない気がする。むっつりと押し黙ったまま、雅は鞄を受け取った。