僕ノ専属
「お帰り、お待ちしてますから。ええと、お部屋のものはなるべく、落としたりしないようにお掃除して」
「当たり前でしょ、何なの、それ」
「そうですね、申し訳ありません……」
「それから、博とかの命令は何も聞かなくていいから」
すると何故か、彼女はちょっと笑う。
「なに?」
「いいえ、何でもございません」
何もないのに笑うなんて、気持ちが悪い。しかし雅が睨んでも、彼女はまだ笑っている。
「分かりました、なるべく努力いたします」
「なるべくじゃないんだよ!」
「千富さんに相談します」
「……千富にやらせればいいよ」
「ええ、そうですね。お願いしてみます。だから、そろそろ行って下さいまし。すっかり遅れてしまいますよ」
学校などどうでもいい。はっきり言って、つまらない、退屈だ。
それよりも、すべきことがあるのだ。それを、何故あんな意味のない場所へ通わねばならないのか、全く納得が行かない。
しかし、目の前の使用人は、行け、と言うのだ。私は望んでも学校には行けません、勉強したくてもできません、でも雅様にはその機会が与えられているんですから、我慢して通ってみて下さい、当主になるためにも役立つはずです――などと言う。
だから、仕方なしに、学校へ行く。
はーあ、と深い溜息をついた。
「どうなさいました?」
「何でもない。……ねえ、それ、痛い?」
まだ彼女の額は赤いままだ。
「おでこですか? いえ、もう大したことはありません。――心配して下さってるんですか?」
「べっ、別に! そんなのするわけないだろ!」
そうですねえ、とはるはまた笑う。
さっき、雅が博と言い争っているときは、おろおろしていたくせに。
何だか癪に障る。
「それでは、行ってらっしゃいませ、雅様」
切り上げるように、さっさと見送ってしまおうとする彼女に、一矢報いたいような気分だ。
雅は、その手で使用人の額に触った。
「……ま、まさしさま?」
何が起きたのか分からない、と言いたげな彼女の声など無視して、――それで、顔を近づけた。
(何度目だっけ、こんな顔が近いの?)
まあいい、何度目だって関係ないのだ。
雅は、戸惑う彼女の、赤いままの額に、唇を寄せた。
絶句して、びしりと固まった彼女が、とても可笑しい。茫然と雅を見つめる様が、本当に珍妙だ。
「あはははは、ばーか」
言いながら、口づけた額を、びしりと引っ叩いた。
「い、痛っ」
もう一度、額を押さえる彼女に、さっさと背を向けて、
「じゃあ、僕の命令、忘れるなよ」
言い置いて自動車へと向かう。
少し間を置いてから、行ってらっしゃいませ、と再び寄越された言葉が、何とはなしに困っているような音で、すっとした気分だった。
――了