俺ノ恋人
桜の季節ももう終わりだ。新緑が眩しくなる時期が、迫って来ている。
進は一人、赤バイを車庫に片付けながら、息をついた。
「なんだよ、その溜息?」
一人だと思っていたが、そうではなかったようだ。背後から話しかけてきたのは、親友――だと思う――の澄田三治だ。
「いや、ちょっと疲れただけだ」
「ふうん、そうか?」
どことなく、疑わしげに問うてくる。
一度は訣別した友人だ。互いを殺そうとした。いや、進は確かにこの男を銃で撃ったのだった。しかし、互いのことは既によく知っている。隠し事ができない、とまでは言わないまでも、し難くなってはいた。
「それより、三治。そっちこそどうしたんだ?」
一年ほど前までは、同じ所属だったが、今は違う。進は交通課だが、三治は特高だ。その三治がここにいる理由が不明だ。
「ちょっとな、お前と飲みに行こうかと思ってさ」
「飲みに?」
「そう。いいだろ?」
付き合えよ、ともうほとんど、有無を言わせぬような態度だ。
彼と飲むのは、どれくらい振りだろう。あの忌まわしい事件よりも前だったはずだ。半年以上は前の話か。
仕事はもう終業の時間だ。それもいいか、と思えてきた。
「それじゃあ、支度をしてくるから、待っていてくれ」
「ああ」
さて、飲みに行くとはどういうつもりだろうか。
まだ快く二人で盃を酌み交わすほどに、わだかまりがすっかり消えたとは言い難いはずなのだけれど。
とは言え、不快ではない。
三治とともに、以前もよく二人で訪れた店に寄る。周囲には、同じように飲みに来ている客がちらほらと見受けられた。
まずは酒と料理もいくつか、運ばれて来た。二人でとりあえず、一杯目を呷ると、
「それで、一体どうしたんだ?」
進から話を切り出すように、促した。
三治は、渋い顔を見せる。話し出すことを躊躇っているように見えた。自分から誘っておいて、どういうわけか。
「そんなに話しづらいことなのか?」
訊ねると、まあな、と曖昧に言う。けれども、意を決したように、改めて口を割った。
「お前のとこの、使用人のことなんだが」
「使用人?」
そう聞いて、思い浮かんだのはまず、一人だ。
「それは、はるさんか?」
「いや、そっちじゃなくて、つまり、もう一人と言うか、だな」
もう一人、と三治が言うような、使用人の中でも特別に顔を知る人間。
「ああ、たえさんか」
頷く仕種が、どことなくぎこちない。進は思わず、苦笑を漏らしていた。
「な、何だよ?」
三治が突っかかるように言う。まるで拗ねた子どもの態度だ。
「いや、何かたえさんとあったのか?」
「……あったと言うより、ないと言う方が正しいな」
苦々しげに、三治は明かした。
「何もない?」
「宮ノ杜家の使用人ってのは、そんな忙しいもんなのか?」
「まあ……そうだな、そうかも知れない」
そもそも使用人たちが、暇そうにしているところなど、見たことはない。いや、ともすれば猫に餌をやったりして、怒られている使用人を一人、知っているけれど。
「春は花見も茶会もあるしなあ」
「それじゃあ、あながち嘘でもないのか……」
ほっとしたような、けれど喜ばしそうではないような、中途半端な顔をする三治に、また、進は笑いそうになってしまう。
「たえさんに振られているのか」
「そうはっきり言うなよ。否定できないんだからよ」
「それは、悪かったな」
いよいよ笑うことを堪え切れなくなる。
「たえさんはかなり有望らしいから、仕方ないかもしれないな」
「はーあ、分かってるよ。――で、お前は?」
ふいに話を振られる。
「俺?」
「何をとぼけてるんだよ? はるとはどうなんだよ?」
どう、と言われても。
「まあ、普通に」
「普通って何だよ?」
「同じ敷地内に住んでいるわけだし、彼女はうちで働いているわけだし、普通に顔を合わせてるよ」
「いや、そうじゃなくて」
「たまには、俺の部屋とか庭で、二人で話もするよ」
「出かけたりは?」
「そこは、たえさんと一緒だな。催しがあると、どうしても時間が取られて忙しいみたいだ」
「なるほどねえ……」
三治は再び、深い深い溜息を吐き出すのだった。
恋人同士なのかどうか、難しいところにいる三治とたえの関係は、傍から見ていて、ちょっと興味深い。たえは、上手く三治を操っているように見える。
母を思い出してみる。か弱く見えることもある、だが、芯は強いと感じさせる。女性とは、強かな生き物なのかもしれない。
「惚れた弱みだな」
進の言葉に、不貞腐れたような表情になる。ぐいっと二杯目を一気に飲み干した三治は、進の顔を恨めしげに見た。
「お前はいいよな、尽くしてくれそうな女だし」
「……まあ、そうかも知れないな」
互いの気持ちを、はっきり確認してから、まだ一ヶ月も経っていない。父にはまだ、結婚を前提に付き合う、と言うことを話していない。しかし、既に彼の人の耳には入っていることだろう。特に何も言って来ないところを見ると、特に怒りを買っているのではないようだ。それでも折を見て、話をするつもりではいる。
彼女は、父を恐れている。それは当然だろう。雇い主だし、それに「宮ノ杜家」の当主なのだから。それでも、彼女を幸せにしようと彼女にも、また自身の心にも誓った。
「愚痴を言いに来たってのに、惚気聞くことになるのは腹が立つな」
三治は急に不機嫌そうに言う。
「自分が聞いたんだろう?」
「そうだけどよ」
あーあ、と何度目か知れない溜息をついた三治は、また酒を呷る。進も、彼に付き合って、ぐいと一杯を飲み干す。
「ま、お互い苦労するよな」
「……お前は順調なんだろう?」
「そうじゃないとは言わないけどな」
それでも、何もかもが思うとおりに進んでいるわけではない。父にもまだ、話せていないし、はると会うことも実際はなかなか難しい。
長兄次兄は、何故使用人などと、という目をしているし、ついでにそれを口にもする。ひどいのは末弟の雅で、
「ゴミが恋人だとか、信じられないんだけど」
すっかり冷たい態度で、たまにはるを見ては当て擦るように言ってくる。
この間までは、博がそんな雅を窘めていたのだが、彼ももうエゲレスに洋行に出てしまった。当然、進も雅を叱るのだが、彼には効かない。進の母が庶民のせいだろう。
はるは、雅に責められる度に、申し訳ありません、などと謝罪している。何も謝ることではないはずなのに。
「まあ、お互いに踏ん張るしかないんだろうな」
「そんなところかも知れないな」
分かっているのは、恋しい人のため、二人とも弱音を吐いているだけではいられないと言うことなのだ。
それから、仕事の話もして、三治とは別れた。
屋敷に帰ると、玄関で出迎えたのは、はるだった。
「進様、遅かったですね」
心配そうに近づいてきたが、目の前まで来ると少し顔を顰めた。
「……お酒臭いです」
「三治と飲んで来たんだ」
「そうだったんですか。お元気でした、三治さん?」
「まあね」
たえのことなど愚痴を零していたが、あれも元気な証拠のように思えた。
部屋へ向かおうとする彼の足取りに合わせ、はるもついて来た。ふと思い立ったように、彼はそんな彼女の肩を抱いた。
進は一人、赤バイを車庫に片付けながら、息をついた。
「なんだよ、その溜息?」
一人だと思っていたが、そうではなかったようだ。背後から話しかけてきたのは、親友――だと思う――の澄田三治だ。
「いや、ちょっと疲れただけだ」
「ふうん、そうか?」
どことなく、疑わしげに問うてくる。
一度は訣別した友人だ。互いを殺そうとした。いや、進は確かにこの男を銃で撃ったのだった。しかし、互いのことは既によく知っている。隠し事ができない、とまでは言わないまでも、し難くなってはいた。
「それより、三治。そっちこそどうしたんだ?」
一年ほど前までは、同じ所属だったが、今は違う。進は交通課だが、三治は特高だ。その三治がここにいる理由が不明だ。
「ちょっとな、お前と飲みに行こうかと思ってさ」
「飲みに?」
「そう。いいだろ?」
付き合えよ、ともうほとんど、有無を言わせぬような態度だ。
彼と飲むのは、どれくらい振りだろう。あの忌まわしい事件よりも前だったはずだ。半年以上は前の話か。
仕事はもう終業の時間だ。それもいいか、と思えてきた。
「それじゃあ、支度をしてくるから、待っていてくれ」
「ああ」
さて、飲みに行くとはどういうつもりだろうか。
まだ快く二人で盃を酌み交わすほどに、わだかまりがすっかり消えたとは言い難いはずなのだけれど。
とは言え、不快ではない。
三治とともに、以前もよく二人で訪れた店に寄る。周囲には、同じように飲みに来ている客がちらほらと見受けられた。
まずは酒と料理もいくつか、運ばれて来た。二人でとりあえず、一杯目を呷ると、
「それで、一体どうしたんだ?」
進から話を切り出すように、促した。
三治は、渋い顔を見せる。話し出すことを躊躇っているように見えた。自分から誘っておいて、どういうわけか。
「そんなに話しづらいことなのか?」
訊ねると、まあな、と曖昧に言う。けれども、意を決したように、改めて口を割った。
「お前のとこの、使用人のことなんだが」
「使用人?」
そう聞いて、思い浮かんだのはまず、一人だ。
「それは、はるさんか?」
「いや、そっちじゃなくて、つまり、もう一人と言うか、だな」
もう一人、と三治が言うような、使用人の中でも特別に顔を知る人間。
「ああ、たえさんか」
頷く仕種が、どことなくぎこちない。進は思わず、苦笑を漏らしていた。
「な、何だよ?」
三治が突っかかるように言う。まるで拗ねた子どもの態度だ。
「いや、何かたえさんとあったのか?」
「……あったと言うより、ないと言う方が正しいな」
苦々しげに、三治は明かした。
「何もない?」
「宮ノ杜家の使用人ってのは、そんな忙しいもんなのか?」
「まあ……そうだな、そうかも知れない」
そもそも使用人たちが、暇そうにしているところなど、見たことはない。いや、ともすれば猫に餌をやったりして、怒られている使用人を一人、知っているけれど。
「春は花見も茶会もあるしなあ」
「それじゃあ、あながち嘘でもないのか……」
ほっとしたような、けれど喜ばしそうではないような、中途半端な顔をする三治に、また、進は笑いそうになってしまう。
「たえさんに振られているのか」
「そうはっきり言うなよ。否定できないんだからよ」
「それは、悪かったな」
いよいよ笑うことを堪え切れなくなる。
「たえさんはかなり有望らしいから、仕方ないかもしれないな」
「はーあ、分かってるよ。――で、お前は?」
ふいに話を振られる。
「俺?」
「何をとぼけてるんだよ? はるとはどうなんだよ?」
どう、と言われても。
「まあ、普通に」
「普通って何だよ?」
「同じ敷地内に住んでいるわけだし、彼女はうちで働いているわけだし、普通に顔を合わせてるよ」
「いや、そうじゃなくて」
「たまには、俺の部屋とか庭で、二人で話もするよ」
「出かけたりは?」
「そこは、たえさんと一緒だな。催しがあると、どうしても時間が取られて忙しいみたいだ」
「なるほどねえ……」
三治は再び、深い深い溜息を吐き出すのだった。
恋人同士なのかどうか、難しいところにいる三治とたえの関係は、傍から見ていて、ちょっと興味深い。たえは、上手く三治を操っているように見える。
母を思い出してみる。か弱く見えることもある、だが、芯は強いと感じさせる。女性とは、強かな生き物なのかもしれない。
「惚れた弱みだな」
進の言葉に、不貞腐れたような表情になる。ぐいっと二杯目を一気に飲み干した三治は、進の顔を恨めしげに見た。
「お前はいいよな、尽くしてくれそうな女だし」
「……まあ、そうかも知れないな」
互いの気持ちを、はっきり確認してから、まだ一ヶ月も経っていない。父にはまだ、結婚を前提に付き合う、と言うことを話していない。しかし、既に彼の人の耳には入っていることだろう。特に何も言って来ないところを見ると、特に怒りを買っているのではないようだ。それでも折を見て、話をするつもりではいる。
彼女は、父を恐れている。それは当然だろう。雇い主だし、それに「宮ノ杜家」の当主なのだから。それでも、彼女を幸せにしようと彼女にも、また自身の心にも誓った。
「愚痴を言いに来たってのに、惚気聞くことになるのは腹が立つな」
三治は急に不機嫌そうに言う。
「自分が聞いたんだろう?」
「そうだけどよ」
あーあ、と何度目か知れない溜息をついた三治は、また酒を呷る。進も、彼に付き合って、ぐいと一杯を飲み干す。
「ま、お互い苦労するよな」
「……お前は順調なんだろう?」
「そうじゃないとは言わないけどな」
それでも、何もかもが思うとおりに進んでいるわけではない。父にもまだ、話せていないし、はると会うことも実際はなかなか難しい。
長兄次兄は、何故使用人などと、という目をしているし、ついでにそれを口にもする。ひどいのは末弟の雅で、
「ゴミが恋人だとか、信じられないんだけど」
すっかり冷たい態度で、たまにはるを見ては当て擦るように言ってくる。
この間までは、博がそんな雅を窘めていたのだが、彼ももうエゲレスに洋行に出てしまった。当然、進も雅を叱るのだが、彼には効かない。進の母が庶民のせいだろう。
はるは、雅に責められる度に、申し訳ありません、などと謝罪している。何も謝ることではないはずなのに。
「まあ、お互いに踏ん張るしかないんだろうな」
「そんなところかも知れないな」
分かっているのは、恋しい人のため、二人とも弱音を吐いているだけではいられないと言うことなのだ。
それから、仕事の話もして、三治とは別れた。
屋敷に帰ると、玄関で出迎えたのは、はるだった。
「進様、遅かったですね」
心配そうに近づいてきたが、目の前まで来ると少し顔を顰めた。
「……お酒臭いです」
「三治と飲んで来たんだ」
「そうだったんですか。お元気でした、三治さん?」
「まあね」
たえのことなど愚痴を零していたが、あれも元気な証拠のように思えた。
部屋へ向かおうとする彼の足取りに合わせ、はるもついて来た。ふと思い立ったように、彼はそんな彼女の肩を抱いた。