出来損ないのラブコメディ
まるで生まれて初めて雪を見た幼子のよう。少年の顔に浮かんだ驚愕はそれほどまでに純然だった。どろどろに煮立った怨嗟は剥がれ落ち、唇の端から垂れる血さえ除けば、純朴と言って差し支えない表情だった。
先に我に帰ったのはジャンの方だった。先程までの興奮が急激に冷め、血の気が引いてゆく。何を。俺はいまエレンに何をした? だが自問すべくもなく既に分かりきっている。ほの温かさが、荒れた表面と対照的な柔らかさが、軽く開いていた口内から流れ込んできた鉄の味と湿り気が、まだ唇に残っている。
「――そういう意味じゃないからな!」
反射的にジャンが叫ぶ。するとその大声に応じるようにエレンの目がぱちり、ぱちりと瞬きをした。そして驚愕に染まっていた顔が、今度は大袈裟なまでに青褪めてゆく。
「何だよお前……嫌がらせかよ?! あ、頭おかしいんじゃねえか! この期に及んで……」
エレンの癇癪染みた反応にジャンは少し傷つく。しかし何故傷ついたのかは分からなかった。「……違う」今のジャンには、ただ否定するのが精いっぱいで、
ズシン。
その時。突然の地響きに二人は体を強張らせた。地響きは段々と大きくなってゆく。完全に統制されてはいない、生き物ならではのリズムで。二人は息を呑んだ。袂で休んでいる木は枝葉豊かで足音の主からの視界を阻んでいるが、それでも発見されぬとはとても言い切れない。呼吸すら忘れ押し黙る。そして木の葉散らす、強い揺れの後――地響きは小さくなっていった。足音の主は通り過ぎたようだ。
二人は静かに安堵の息を吐く。エレンはそのまま、落ち着いたどころか気が抜けたように言った。
「……ならなんでキスなんかしたんだ」
沈黙。エレンの問いは鉱山の砂利に無造作に手を突っ込んで宝石を探すことと同じだ。ジャンは己の思考を束ねられぬままぐずぐずと弁明をする。心の中で。
――ただ、お前がどうせ死ぬなら一矢報いて死ぬなんて言うから。狂気のような決意を以て死ぬなんて言うから。俺はあんな、やりきれない、辛い気持ちになって――
……どうして?
気づけばそっぽを向いたエレンの頬が淡く色づいていた。「何だよそれ気持ちわりいな」毒吐きつつもジャンも己の顔が熱くなってゆくのを感じていた。少年たちは見つめ合うことも出来ず赤面する。きっと二人が置かれている状況を知る者が見たら、なんと緊張感の無いことだと呆れるだろう。現在地は壁外の森の奥深く。移動手段である馬を失い、ガスも無くなった。全身に浴びているのは仲間の血。つい先程まで見ていたのは、巨人たちに仲間の体が折られ、引きちぎられ、食われる光景。それらは紛れもなく絶望そのものだ。朝の陽光のように、或いは夕暮れと宵闇の僅かな間のように、穏やかに染み入って、心を塗り潰すのだ。
それがどうだ。今や二人の心を支配しているのはホットミルクのように甘ったるい感傷だ。こんなにも仲間の血にまみれ、阿鼻叫喚を聞きながらも、呑気に青臭い感傷に浸ってしまえるとはどういう了見か。自分たちは殺伐とした劇に諧謔味を与えるための端役か何かか。ジャンはむず痒さに襲われた。
少年は皆、いつだって自分のことを理解していないものだ。
先に我に帰ったのはジャンの方だった。先程までの興奮が急激に冷め、血の気が引いてゆく。何を。俺はいまエレンに何をした? だが自問すべくもなく既に分かりきっている。ほの温かさが、荒れた表面と対照的な柔らかさが、軽く開いていた口内から流れ込んできた鉄の味と湿り気が、まだ唇に残っている。
「――そういう意味じゃないからな!」
反射的にジャンが叫ぶ。するとその大声に応じるようにエレンの目がぱちり、ぱちりと瞬きをした。そして驚愕に染まっていた顔が、今度は大袈裟なまでに青褪めてゆく。
「何だよお前……嫌がらせかよ?! あ、頭おかしいんじゃねえか! この期に及んで……」
エレンの癇癪染みた反応にジャンは少し傷つく。しかし何故傷ついたのかは分からなかった。「……違う」今のジャンには、ただ否定するのが精いっぱいで、
ズシン。
その時。突然の地響きに二人は体を強張らせた。地響きは段々と大きくなってゆく。完全に統制されてはいない、生き物ならではのリズムで。二人は息を呑んだ。袂で休んでいる木は枝葉豊かで足音の主からの視界を阻んでいるが、それでも発見されぬとはとても言い切れない。呼吸すら忘れ押し黙る。そして木の葉散らす、強い揺れの後――地響きは小さくなっていった。足音の主は通り過ぎたようだ。
二人は静かに安堵の息を吐く。エレンはそのまま、落ち着いたどころか気が抜けたように言った。
「……ならなんでキスなんかしたんだ」
沈黙。エレンの問いは鉱山の砂利に無造作に手を突っ込んで宝石を探すことと同じだ。ジャンは己の思考を束ねられぬままぐずぐずと弁明をする。心の中で。
――ただ、お前がどうせ死ぬなら一矢報いて死ぬなんて言うから。狂気のような決意を以て死ぬなんて言うから。俺はあんな、やりきれない、辛い気持ちになって――
……どうして?
気づけばそっぽを向いたエレンの頬が淡く色づいていた。「何だよそれ気持ちわりいな」毒吐きつつもジャンも己の顔が熱くなってゆくのを感じていた。少年たちは見つめ合うことも出来ず赤面する。きっと二人が置かれている状況を知る者が見たら、なんと緊張感の無いことだと呆れるだろう。現在地は壁外の森の奥深く。移動手段である馬を失い、ガスも無くなった。全身に浴びているのは仲間の血。つい先程まで見ていたのは、巨人たちに仲間の体が折られ、引きちぎられ、食われる光景。それらは紛れもなく絶望そのものだ。朝の陽光のように、或いは夕暮れと宵闇の僅かな間のように、穏やかに染み入って、心を塗り潰すのだ。
それがどうだ。今や二人の心を支配しているのはホットミルクのように甘ったるい感傷だ。こんなにも仲間の血にまみれ、阿鼻叫喚を聞きながらも、呑気に青臭い感傷に浸ってしまえるとはどういう了見か。自分たちは殺伐とした劇に諧謔味を与えるための端役か何かか。ジャンはむず痒さに襲われた。
少年は皆、いつだって自分のことを理解していないものだ。
作品名:出来損ないのラブコメディ 作家名:ひいらぎ