sweet and bitter
汚いところだけどどうぞと、常套句で案内された部屋は、閑静な住宅街に建てられた新築マンションの最上階の一室だった。廊下を抜けて突き当たりのドアを開ければ目測で約20帖の広いリビングがあり、カーテンが開かれた壁一面のサッシからは20階の高さにふさわしい眺望が広がっていて、くらりと軽い立ち眩みを緑川は覚えた。
「普段は料理とかしないからさ、キッチンには大した道具そろってないけど好きに使っていいよ」
リビングダイニングに併設された無駄のないデザインで作られたシステムキッチンはオーブンや自動食器洗浄機も備えられていた。緑川は五人掛けてもまだスペースの余る革張りのソファの脇に鞄を置かせてもらって、とりあえずキッチンを改める。
「お菓子が食べたいって言うから来たけどさ、なにかリクエストはある?」
ボウルはどこだろうと流しの下の収納扉を開けたが、目的のものはなく、剥き出しの配水管だけがそこにあった。釣り下げ式の収納棚も空っぽだった。
「緑川が作ってくれるものならなんでもいいよ」
(そういう台詞は女の子に言えばいいのに……)
色々と言いたい台詞は飲み込んで、シンクの引き出しをすべて開けてみたが、見つかったのは一人分の箸とマグカップとグラス、小皿が二枚、大皿が一枚だけだった。嫌な予感がして一人暮らしには大きすぎる観音扉の冷蔵庫も開けてみたが、中には賞味期限の過ぎた卵と、牛乳、食べ物とは思えない色をしたなにかが詰まっているタッパーがひとつだけだった。
「とりあえず、ちょっと家に道具と食材を取りに行ってくる……」
高校を卒業して、緑川は菓子職人の養成専門学校へ進んだ。いつ頃からパティシエになりたかったのかは定かではないが、いざ自分の進路に向き合った時に思いついたのはその道だけだった。
卒業後は、お日さま園近くの小さなケーキ屋に勤めることになった。まだ日が浅いので、店ではケーキの飾り付けや店番を任される程度だったが、人の良い店主は緑川の菓子作りの練習を兼ねて、余った食材で菓子作りをさせてくれた。
作ったお菓子を園に届けると、子どもたちは喜んで食べてくれた。瞳子は「私を太らせる気なのね」と言いつつも美味しそうに食べ、たまに園に顔を出しているヒロトも「変な形のクッキー」と言い食べてくれている。
そのヒロトはと言うと、高校卒業後に大学へも行かずに園から出て行った。数年ほど音沙汰もなく、皆「便りがないのはよい便り」と言いつつも心配をしていたら、ある日ふらりとまるで近所のコンビニへ行ってきたように「ただいま」と帰ってきた。どこかの国で出会ったどこかの国の知人と小さな会社を立ち上げたとは言っていたが、その仕事内容を聞いてもよくわからなかった。たまに園のパソコンを使ってメールチェックをしていたり、携帯で日本語以外の言語を話していたりもするが、とりあえずは目の前で元気に生きているのであまり気にしないことにした。
(でも、ちゃんと食べてるのかな…)
スーパーでかごに小麦粉や牛乳を入れつつ、緑川は先程の空っぽの棚や冷蔵庫を思い返した。
「わー、そうすると本当に職人さんって感じだね」
調理スペースに買ってきた食材を並べて、持ってきた仕事着のエプロンと三角巾姿になると、ヒロトは開口一番そう言った。
「で、なに作ってくれるの?」
「ドーナツ」
食器もほとんどないので、手づかみでも食べられるお菓子を選んだ。
ボウルに溶かしたバターと玉子と砂糖を入れて、かき混ぜる。視線を感じたので目線をボウルから上げると、ヒロトが対面キッチンに身を乗り出すように作業を眺めていた。
「……ちょっと時間かかるから、テレビでも観てていいよ?」
「見てたらダメかな?」
上目づかいにそうお願いするヒロトに、断る理由も思いつかず緑川は了承した。
視線をヒロトからボウルに戻し、再び作業を開始したが、ヒロトのまっすぐな視線が痛いほどでなかなか集中できなかった。
(集中集中……。心頭滅却。このくらいで動揺してたら、一人前のパティシエになれないぞ!)
緑川は心のなかで自分に渇を入れて作業を続けた。しばらくするとヒロトの視線にも慣れてきて、むしろ自分の作業ひとつひとつに目を輝かせる彼が微笑ましく思えてきた。
打ち粉をして生地を伸ばす。その生地を引きちぎって伸ばして、円の形を作っていく。ふとヒロトを見やれば、その瞳は先よりもいっそう輝いて見えた。
「……ヒロトもやってみる?」
「いいの?」
ヒロトは嬉しそうにさらに瞳を輝かせた。手を洗って、緑川の隣に立つ。
「生地をこのくらい取って、こうして形作ってね。厚みが均一になるように気をつけて」
緑川の説明を、ヒロトは子どものように何度も頷いて聞いていた。
「ね、これって丸い形以外でもいいの?」
「うーん、あんまり変な形にすると焼いた時にちょっと形崩れるかもしれないけど、まあ別にいいよ」
ヒロトはちいさく「やった」と呟くと、さっそく星形や猫の顔の輪郭をかたどったものを作り出していった。
その姿はまるで、粘土細工で工作をする子どもそのものだった。
(数年振りに会って、全然変わってないなって思ってたけど、やっぱり変わってるかも)
緑川が聴いたことのない歌を鼻歌で歌いながらドーナツ作りをするヒロトの横顔を眺めて、緑川はふとそう思った。
(昔は、こんな風に笑ってなかったよな)
もう十年近くも前、いやそれ以上前からヒロトは感情に乏しい子どもだった。否、笑ったり、怒ったり、泣いたりはしていたが、どこかその感情はヒロト自身のものではなく、ヒロトではない誰かの感情のように自分は感じていた。
(でも、いまは違う)
いま目の前で瞳を輝かせて嬉しそうに作業するヒロトの顔は、紛れもなくヒロト自身だと、確証のない確信が緑川にはあった。
(ヒロトのなかで、きっとちゃんと整理がついたんだろうな)
その変化はヒロトの周りの誰もが望んだことであり、喜ばしいことだった。
(ヒロトは前に向かって歩きだしたんだ)
(俺も、負けてられないな)
緑川はそう意気込んだ。ヒロトの手元を見ると、彼はなにやらソフトクリームのようなものを作っていた。
「なにそれ?」
ヒロトは弾んだ声で答えた。
「レーゼの頭だよ」
「いや、それまじで勘弁して」
生地をトレイに並べて、温めておいたオーブンに入れる。
「ドーナツって、揚げるものだと思ってた」
「揚げても作れるけど、オーブンで焼いたほうが油も使わなくてヘルシーに出来るんだよ」
「へー。ね、どのくらいで焼きあがるの?」
「んー、三十分ってところかな」
その間に洗い物を片付けようと、緑川は流しに立った。ヒロトはオーブンの前に座り込み、中をじーっとのぞきこんでいたが、突然思い立ったように立ち上がった。
「コーヒーでも煎れようか?」
「普段は料理とかしないからさ、キッチンには大した道具そろってないけど好きに使っていいよ」
リビングダイニングに併設された無駄のないデザインで作られたシステムキッチンはオーブンや自動食器洗浄機も備えられていた。緑川は五人掛けてもまだスペースの余る革張りのソファの脇に鞄を置かせてもらって、とりあえずキッチンを改める。
「お菓子が食べたいって言うから来たけどさ、なにかリクエストはある?」
ボウルはどこだろうと流しの下の収納扉を開けたが、目的のものはなく、剥き出しの配水管だけがそこにあった。釣り下げ式の収納棚も空っぽだった。
「緑川が作ってくれるものならなんでもいいよ」
(そういう台詞は女の子に言えばいいのに……)
色々と言いたい台詞は飲み込んで、シンクの引き出しをすべて開けてみたが、見つかったのは一人分の箸とマグカップとグラス、小皿が二枚、大皿が一枚だけだった。嫌な予感がして一人暮らしには大きすぎる観音扉の冷蔵庫も開けてみたが、中には賞味期限の過ぎた卵と、牛乳、食べ物とは思えない色をしたなにかが詰まっているタッパーがひとつだけだった。
「とりあえず、ちょっと家に道具と食材を取りに行ってくる……」
高校を卒業して、緑川は菓子職人の養成専門学校へ進んだ。いつ頃からパティシエになりたかったのかは定かではないが、いざ自分の進路に向き合った時に思いついたのはその道だけだった。
卒業後は、お日さま園近くの小さなケーキ屋に勤めることになった。まだ日が浅いので、店ではケーキの飾り付けや店番を任される程度だったが、人の良い店主は緑川の菓子作りの練習を兼ねて、余った食材で菓子作りをさせてくれた。
作ったお菓子を園に届けると、子どもたちは喜んで食べてくれた。瞳子は「私を太らせる気なのね」と言いつつも美味しそうに食べ、たまに園に顔を出しているヒロトも「変な形のクッキー」と言い食べてくれている。
そのヒロトはと言うと、高校卒業後に大学へも行かずに園から出て行った。数年ほど音沙汰もなく、皆「便りがないのはよい便り」と言いつつも心配をしていたら、ある日ふらりとまるで近所のコンビニへ行ってきたように「ただいま」と帰ってきた。どこかの国で出会ったどこかの国の知人と小さな会社を立ち上げたとは言っていたが、その仕事内容を聞いてもよくわからなかった。たまに園のパソコンを使ってメールチェックをしていたり、携帯で日本語以外の言語を話していたりもするが、とりあえずは目の前で元気に生きているのであまり気にしないことにした。
(でも、ちゃんと食べてるのかな…)
スーパーでかごに小麦粉や牛乳を入れつつ、緑川は先程の空っぽの棚や冷蔵庫を思い返した。
「わー、そうすると本当に職人さんって感じだね」
調理スペースに買ってきた食材を並べて、持ってきた仕事着のエプロンと三角巾姿になると、ヒロトは開口一番そう言った。
「で、なに作ってくれるの?」
「ドーナツ」
食器もほとんどないので、手づかみでも食べられるお菓子を選んだ。
ボウルに溶かしたバターと玉子と砂糖を入れて、かき混ぜる。視線を感じたので目線をボウルから上げると、ヒロトが対面キッチンに身を乗り出すように作業を眺めていた。
「……ちょっと時間かかるから、テレビでも観てていいよ?」
「見てたらダメかな?」
上目づかいにそうお願いするヒロトに、断る理由も思いつかず緑川は了承した。
視線をヒロトからボウルに戻し、再び作業を開始したが、ヒロトのまっすぐな視線が痛いほどでなかなか集中できなかった。
(集中集中……。心頭滅却。このくらいで動揺してたら、一人前のパティシエになれないぞ!)
緑川は心のなかで自分に渇を入れて作業を続けた。しばらくするとヒロトの視線にも慣れてきて、むしろ自分の作業ひとつひとつに目を輝かせる彼が微笑ましく思えてきた。
打ち粉をして生地を伸ばす。その生地を引きちぎって伸ばして、円の形を作っていく。ふとヒロトを見やれば、その瞳は先よりもいっそう輝いて見えた。
「……ヒロトもやってみる?」
「いいの?」
ヒロトは嬉しそうにさらに瞳を輝かせた。手を洗って、緑川の隣に立つ。
「生地をこのくらい取って、こうして形作ってね。厚みが均一になるように気をつけて」
緑川の説明を、ヒロトは子どものように何度も頷いて聞いていた。
「ね、これって丸い形以外でもいいの?」
「うーん、あんまり変な形にすると焼いた時にちょっと形崩れるかもしれないけど、まあ別にいいよ」
ヒロトはちいさく「やった」と呟くと、さっそく星形や猫の顔の輪郭をかたどったものを作り出していった。
その姿はまるで、粘土細工で工作をする子どもそのものだった。
(数年振りに会って、全然変わってないなって思ってたけど、やっぱり変わってるかも)
緑川が聴いたことのない歌を鼻歌で歌いながらドーナツ作りをするヒロトの横顔を眺めて、緑川はふとそう思った。
(昔は、こんな風に笑ってなかったよな)
もう十年近くも前、いやそれ以上前からヒロトは感情に乏しい子どもだった。否、笑ったり、怒ったり、泣いたりはしていたが、どこかその感情はヒロト自身のものではなく、ヒロトではない誰かの感情のように自分は感じていた。
(でも、いまは違う)
いま目の前で瞳を輝かせて嬉しそうに作業するヒロトの顔は、紛れもなくヒロト自身だと、確証のない確信が緑川にはあった。
(ヒロトのなかで、きっとちゃんと整理がついたんだろうな)
その変化はヒロトの周りの誰もが望んだことであり、喜ばしいことだった。
(ヒロトは前に向かって歩きだしたんだ)
(俺も、負けてられないな)
緑川はそう意気込んだ。ヒロトの手元を見ると、彼はなにやらソフトクリームのようなものを作っていた。
「なにそれ?」
ヒロトは弾んだ声で答えた。
「レーゼの頭だよ」
「いや、それまじで勘弁して」
生地をトレイに並べて、温めておいたオーブンに入れる。
「ドーナツって、揚げるものだと思ってた」
「揚げても作れるけど、オーブンで焼いたほうが油も使わなくてヘルシーに出来るんだよ」
「へー。ね、どのくらいで焼きあがるの?」
「んー、三十分ってところかな」
その間に洗い物を片付けようと、緑川は流しに立った。ヒロトはオーブンの前に座り込み、中をじーっとのぞきこんでいたが、突然思い立ったように立ち上がった。
「コーヒーでも煎れようか?」
作品名:sweet and bitter 作家名:マチ子