01:ぬるい欠片
そういえば、少女が自分のマンションに来るときは、大抵雨が降っていると思った。けれど、今日はそうではない。晴天とは言い難いけれど、斑散る雲を通して光が見える。眩しくて眼に痛い。少し下に眼をやれば、世間の闇が小さく蹲っているというのに。
ごめんなさい、ごめんなさい、と単調に響く声にならない声は、狂ったレコードのようにそれ以上は進まない。自分の腕の中で、進む時を感じさせない。だから針を置き換えるのだ。自身の服を掴むその折れそうな指先を掬い上げて、自分の首にまわさせる。もう片方も同様に。それから落ち着かせるため両手で包んでやる。抱きしめるだけなら、こんなに簡単なことのはずなのに。腕にすっぽりと収まってしまうような小さな身体からは、シャンプーの匂いに混じって消毒品の匂いがした。首の後ろで、彼女が手のひらを固く握りしめる。トクトク、と転がり落ちそうだった鼓動が、少しずつ落ち着いていく。やはり人の体温には人を落ち着かせる効果があるらしい。俺はきっとそれが怖い。
「夢、見たんです。今は、夢が一番怖い」
「ああ、……そうだね」
忌避すべきものがあるなら意識的に切り捨てればいい。けれど無意識ならばそれができない。夢の構造なんてものはまだ解っていないけれど、その不鮮明なものは、忘れかけていた記憶まで引きずり出してくる。引きずり出して、目の前に晒して、そして何事も無かったように目覚めを呼び寄せるのだ。彼女の場合、思い出したくない過去のほうが多いのだから。
「臨也さんでも、ですか?」
「そりゃね、俺だって人間だよ? 夢ぐらい見るし、怖いものを見れば怖いと思う」
あと、そうだね、幸せな夢は見たくない。
沙樹がぱっと顔をあげる。本当ですか、という驚いた声に返した苦笑は本心からだった。恐怖を感じれば不安にもなるし、過去に思いを馳せもする。幸せを知れば、絶望も知る。望もうと望むまいと。どれがなくても人間としては欠陥だ。そして、幸か不幸か、そんな自分がこの上なく人間らしいのだということを知っている。視線を向けてくる沙樹の目は真っ直ぐだ。けれど、薄暗い部屋に放置された鏡のように、何も映さない。まあそうしたのは俺か。その口許が徐々に緩やかにほころんでいくのをじっと眺めて、溜息を付く。俺の眼の前でそんな風に笑うのは、何も知らない馬鹿か、沙樹みたいな哀れな子どもか、あるいは、また違った意味で愚かで哀れな子ども達ぐらい。脱色された髪の毛を一房手に取ると、いとおしいものをみるような眼。あくまで、ような、でしかない。欠けているのは、その瞳の感情。水面みたいな眼。
「まったく、君は何が嬉しいんだろうね、」
「だって臨也さんがやさしいから」
こんな薄っぺらなやさしさでいいなら、それこそ、そこいらのコンビニの棚にでも並んでいそうだというのに。そう口にすれば、沙樹はくすくすと声を立てて笑う。臨也さんだからいいんです、と胸に額を当ててくる彼女の頭を撫でると、薄い瞼が落ちた。沙樹。悪意も善意もなくその名前を呼べば、声を涙と勘違いしてしまいそうになる。零れて、落ちて、消える。薄い皮膚の下で蠢く瞳は何を見るのだろう。幸せだった過去なんて、この子どもにとっては凶器でしかないくせに。可愛そうに。ああ、可愛そうに。だからこそ、俺は人を愛しいと思えるのだろう。こんなにも容易に、傷ついて、それでも希望を求めずにはいられないから。
「……幸せな夢だったんです、昔の。やさしくて、本当やさしくて、でも、私は怖くて。それが壊れてしまうときを知ってたから」
沙樹は詠う。現実に基づいた夢を。夢に基づいた現実を。震える手を取ってやれば、瞼の下から漆黒が浮かぶ。もう少ししたら、そこに揺らぎを加えてやらなければ。それが自分の良心から来た言葉だとは思うはずもなかったし、ましてや罪悪感なんて感じるはずもなかった。あるのはただの知識欲。
「幸せな時間だけを閉じこめておくガラスケースでも欲しかった?」
「ガラスケースだったら割れちゃうじゃないですか」
「だって、過去に基づかない現在なんてないんだから仕方がない」
断片的に続くトーンの高い忍び笑い。青い静脈の流れる手首。細い首筋。それを伝っていけば、傷跡に行き着くことは知っていた。溜息混じりに言葉を与えれば、沙樹はそうですね、と受け入れる。それでも、人はそんなガラスケースを作らずにはいられないんだけどね。内心の呟きは無邪気を気取った。ああ、どちらにしろ、沙樹の平穏というガラスケースは既に一度壊されてしまった。今彼女は身を守るように光を反射して輝くガラスの破片にまみれて、蹲る。一歩間違えれば、道は一つ。ガラスの破片が傷つけるのは、彼女自身なのだから。壊すのは、容易い。難しいのは、人間を作り直すこと。人間であるものを組み合わせて人間を作るというのもそうなのかもしれない。まったくもって、希有な欲望だ。その欲望をひけらかして遊ぶ子どもたちは、人間を作りたいという点で、確かに自分に似たのかもしれなかった。馬鹿な奴ら。記憶を憐れみで覆えば、沙樹が口を開いた。
「ねえ、臨也さん、一つ訊いて良いですか」
沙樹は、俺の名前を飽きずに、何度でも口にする。あたかも、存在を手探りで確認するように。
「言ってみるといい」
俺は君からは逃げないし、隠れもしないよ。知ってます、教えてもらったから。そんな、たわいもないやりとり。俺は彼女に嘘はつかない。偽も信じさえすれば、真実にだってなりもする。
「……臨也さんが見たくない幸せな夢って、誰の夢ですか?」
「……どんな、じゃなくて誰の?」
「だって、大切そうに撫でてくれたから、臨也さんには大切な人がいるんだろうなって。……羨ましいなって」
女の子って聡いなあ。感嘆でも冷笑でもない。強いて言うなら、自嘲。意識的に口許を歪ませれば、沙樹は次の言葉を待って口を閉ざした。羨ましいのはどっちだろうね。想いたいのか、想われたいのか。俺か君か。
「……じゃあ、沙樹」
「なあに、」
「君に大切な人ができたら教えてあげる」
君が、人間としてもう一度人を愛せたなら。
俺が、あの二人より先に難解な人間ゲームを解けたなら。
本当に、と盲信した沙樹の嬉しそうな笑み。それは、回顧に繋がる。嫌だなあ、と思う。だって、ガラスケースが欲しかったのも俺ならば、そのケースが砕け散るのに気付かなかったのもまた、俺だった。