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堕ちた月

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ぴちゃん、と水の滴る音が響く。
それがやけに耳障りなのは、僕がひとりぼっちだから。

あんなに狭く感じた我が家が、たった二人の存在を失くしただけでこんなにも広く感じる。
二人の温もりが感じられない。それだけで僕の心はゆっくりと崩れ落ちる。

僕はアルバムを握り締め、部屋の片隅で小さく蹲る。
いつからそうしていたのかもう分からない。
刻む秒針が耳を麻卑させ、僕は考える事を諦めた。
もう、何も考えたくなかった。

無音が支配するこの空間に、笑い声が溢れていた時をひっそりと思い出しながら、僕は確かにここに居る。
守りたかった存在が消えても僕はずっと、永遠に、ここにある。


かたん、


玄関から微かに聞こえた物音。
それは小さなちいさな音だった。だけど確かに僕の希望の音だった。
弾かれた様に顔を上げて、腕に抱いたままのアルバムをそのままに一気に駆け出す。


「冠葉!?」

そんなわけがないのに、僕は期待に胸を躍らせていた。
どうしようもない道化だ。だけどそれに笑ってくれる僕の唯一の存在はもう戻らない。

瞳に映った桃色を認め、僕はやはり現実に打ちのめされた。
あの時知らない瞳を投げ掛けられて、背を向けられて、否定されて、その瞬間からこの家にその存在が還ってくる事などもうないのだから。


「渡瀬先生…」

「御期待に添えなかったようで」

先生は全てを見透かしたような冷笑で僕を真っ直ぐ見詰めていた。
僕はそれが恐ろしくて瞳を伏せる。

「あの、もう陽毬は…」

「知ってるよ。今日は君に話があるんだ」

「僕に?」

「そうだよ。だから、いいかな」

人の良さそうな表情とは裏腹に、無遠慮に僕の領域に足を踏み入れる。
何も言えないまま、僕はただ先生の笑顔に惹き込まれるようにこくりと頷いた。
冷えた手が汗ばんで僅かに震える。


「そうだ。これ、お土産」

たった一つの真っ赤な林檎。
それは禁断の果実。
僕は咄嗟に身を引いて、その燃え盛る紅をじっと睨みつける。

「どうしたんだい?丁度いい具合に熟れてるから美味しいと思うよ」

僕は腕を取られ、アルバムと引き換えに掌に大きな林檎を載せられる。
ずっしりと存在を示されて、僕は困惑してしまった。
僕の知っているこの色は、もうこの手の届かない所にあると言うのに。

作品名:堕ちた月 作家名:arit