堕ちた月
「あの…何ですか、お話って」
両手で紅く熟れたそれをぎゅっと抱く。
それを見た先生が、僅かに口角を上げる。
笑顔の意図が分からなくて、僕は心の中で何度も兄の名を呼んだ。
それだけで少し救われる気がしたから。
「ああ、酷い顔だね。眠れなかったのかい?」
先生の腕がたわやかに伸ばされ、僕の頬を慈しむように撫でる。
その冷たさに癒えきっていない傷が疼き、僕は身を竦ませる事でどうにか耐えた。
「可哀想に。君は選ばれなかったんだね」
淡々と紡がれる言葉が棘になって僕に突き刺さる。
それは触れられている痛々しい程に膨れ上がった頬ではなくて、もっと違う、到底触れる事など出来ない仄暗い箇所へ。
選ばれないことは、死ぬこと。
それは最愛の妹があの時告げた鎖の様な言葉。
だけど、選ばれない事にもきっと意味があると、僕は信じたかった。
「いいんです。それで良かったんだって思ってますから」
冠葉は陽毬が好きだから。
もし僕を選ぶとしたら、冠葉の過ちが重く積み重なるだけ。
だから僕はいいんだ。もうなにもかも。
冠葉の背中を見送った時、僕は静かに思ったんだ。
正せないのなら、例えそれが間違った道だとしても、僕は冠葉の儚い幸せを守ってあげたいと。
逃げ続けた僕に出来る唯一の事は、もうそれしかないから。
だから、これが僕の答え。
「君は強いんだね」
「強くなんか…」
僕は誰より弱くて卑怯な生き物なんだ。
今まで冠葉の気持ちを感じながら、目を瞑り知らない振りを続けた。
幸せの形を壊したくなくて、結果僕は冠葉を壊してしまった。
一番壊れてはいけない大切なものだったのに、気付いた時には手遅れで。
僕は果てしなく愚かな人間だ。
「ねぇ、君はお兄さんの気持ちを知ってる?」
「知ってます」
「そう。なら、本当の気持ちは知ってるのかな?」
「本当の気持ち…?」
「そう。彼はまだもう一つ、君さえも知り得ない想いを抱いてる。きっと彼本人でさえも気付き得ない小さな存在だろうね」
おいで、と先生が僕を誘う。
どうしてだろう、僕は抗うどころか吸い込まれるように先生の腕に収まる。
だけどその先の鼓動は、僕の身体には伝わっては来なかった。
まるで精巧に出来た人形に抱かれるような、そんな奇妙な感覚に苛まれる。
「先生、それは、なに?」
「さぁ、何だと思う?」
ぎゅっと優しく包み込まれる。久々に触れる他人の存在。
何故かそれが心地良くて、僕は脳が痺れていくのを感じた。
瞳がゆっくりと閉じていくのを感じながら、先生の小さく笑う声を耳に入れる。
「おしえて、おねがい」
「そうだね…もしかすると、それを君は望んでいるかもしれない、って事かな」
「僕が、のぞむこと…?」
瞼が重くて上手く上がらない。
僕はぼんやりと霞む頭で先生の言葉を待った。
「知りたい?」
「はい、知りたい、です」
「そう。それじゃあ―――」
先生の唇が緩やかに弧を作り、僕を夢の淵に立たせる。
「話の続きは夢の中で、ね」
時間は幾らでもある。ゆっくり、二人だけで、話そう。
永遠に。
先生が緩やかに笑った。
その時、薄れ行く意識の中で僕は知った。
先生が僕の世界の住人となった瞬間、僕の運命が引っ繰り返った事を。
これが逃げ続けた僕への罰なんだと思った。
「おやすみ。良い夢を」
僕たちを結ぶ紅い林檎。それを目に留めて僕は瞼を静かに落としていく。
甘ったるい声を子守唄に、僕の世界はフェードアウトした。