堕ちた月
◇
「君は、この世界には勿体無いくらい良い子だね」
柔らかい髪に手を添えて、ゆったりとした手付きで撫でる。
規則正しい呼吸を繰り返し、薄く開いた唇から健康的な赤色がちらりと覗く。
「高倉冠葉、彼はね、君に一緒に堕ちて欲しかったんだよ」
本人さえ未だ気付かぬ想い。
少しの優越感に浸り、ひっそりとほくそ笑む。
「ちょっとした賭けをしたんだ。彼が気付けば僕の負け。だけど最後まで彼は気付こうとしなかった、だから僕の、勝ち」
華奢とも貧相とも取れる身体をそっと守る様に横たえる。
同時にぱさりと一面に広がる蒼い海。
それを一房持ち上げ、歪めた唇に優しく押し当てた。
「彼は選ぶ権利を放棄したからね。代わりに僕が君を選ぶよ」
君が共に堕ちるのは、彼ではなくて、僕。
それが君の運命だよ。
艶を帯びた微笑みで閉じた瞳を想う。
穢れを知らない澄んだ瞳。
それはどうしようもない征服欲を掻き立てた。
生まれたままの姿はそれはそれは美しく、這わせる肌は滑らかに透き通っている。
こんな綺麗な存在は、きっと愛した彼女をも超越し得る希代なる個体。
それがいとも容易くこの手に堕ちる。勝ち誇った嘲笑を浮かべる瞬間。
「穢れた君を見て、彼は何と言うだろうね?」
共に在って欲しいと願った者が地に堕ちた瞬間、それは一体彼の何を突き動かすのだろうか。
桃紅色がすっと細められ、薄く開いている唇を人差し指で軽くなぞる。
「さぁ、時間だよ。一緒にイこうか」
僕たちを待つ素晴らしい終焉に。
暗闇にひとつ影が溶ける。
二度とふたつにならない影が、妖しく揺らめいて消えた。