茜空とほうき星
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夕闇が迫る時刻は、子供の頃のグラハムには憂鬱でしかなかった。暗い夜の訪れと、眠れない毎日。ただ生きているだけで精一杯だったあの頃。
もしもあのとき、夕焼けの美しさを知らなかったら。流れ星を待つ楽しさを教えてもらわなかったら。今も変わらず苦手なままだったのだろう。
考えを変えることができてよかったと、グラハムは今、正直にそう思う。
茜色の空の下、暮れていく空のコントラストを楽しみながら人を待つ。ただそれだけのことが本当に幸せだった。
「やぁ、お待たせ、グラハム」
「いや」
明日は休みだから、ビリーの家で過ごそうと約束してあったのだ。それをずっと楽しみにしていたなんて、グラハムは絶対に言わないけれど、恐らく態度やらなんやらで、すでにバレバレだったに違いない。
途中でスーパーに立ち寄り、以前のように食材を買い込んでいく。そういえば、とグラハムは思いだしていた。
「前にもこんな風に買い物をするとき、君は私に聞いただろう?」
「ん? ああ、スーパーに寄って、と言った意味ね」
「あれは結局、どういうことだったんだ?」
ビリーは品物を物色しながら、カートの中に適当に放り込んでいく。以前も思ったが、かなり大雑把である。
「グラハム、君、ブロッコリーは食べられたっけ?」
「食べられる」
「じゃあ、サラダにでも入れようね。そうそう、君の質問の答えね。つまりはこういうことだよ」
その場で両手を広げられても、グラハムにはサッパリわからなかった。ハテナマークをいっぱい浮かべながら首をかしげると、ビリーに笑われていた。
「あの後、僕はこうも言ったはずだよ。『一緒に買い物して、一緒にご飯を食べて、一緒に眠ろうね』って」
確かにそう言っていた。そして初めての事に挑んだのだから、グラハムにとっては忘れられない大切な思い出の日でもあった。
「……ああ、もしかして『一緒に』か?」
「正解」
ニッコリと、満点の回答を得た教師のように、ビリーが笑う。
「君の大事なことって、全部、君自身に関することだったろう? もちろんそれはとても大事なことさ。でもねぇ、グラハム。君の言う大事なことは、誰かと一緒ならもっといいものになるんだよ」
空を飛ぶこと、腹いっぱいに食べられること、寒くないこと。グラハムは以前、大事なものは何かと聞かれて、こう答えていた。
「僕は君を好きなだけ空に飛ばしてあげる。望むだけのカスタマイズもしてあげよう。どうだい?」
魅力的だろう、と微笑むビリーに、グラハムもつられるように笑った。
「そうだな」
「食事はね、食べることはもちろん、一緒に買い物したり作ったりすることにも意味があると思うんだ。寒いときはお互いに抱き合って過ごせば問題ないよ。ほらねぇ、グラハム。僕は君の望みを二乗にだってしてみせるよ」
ビリーはグラハムの言った大事なものをすべて、自分とならば、という視点に置き換えて力説をした。
それはグラハムの知らないことだった。一人で生きてきたグラハムが望みようもないことだった。それをビリーが与えてくれるという。
とても贅沢なことだと思えた。けれどそれらは本来、持っていて当たり前のものなのだ。たまたまグラハムには与えられなかっただけで。
「君は我侭なんかじゃないよ。むしろ足りないくらいだ。だからなんでも言えばいい。君の望みは僕が叶えてあげるから」
ビリーの言葉に鼻の奥のほうがツンとして、往来の激しいスーパーの真ん中で泣いてしまいそうになるのを、グラハムはこらえていた。
自分には一生縁のないものだと思っていた。でもそれを与えてあげると言われた。涙の一滴くらい流れたって恥じゃないはずだ。
「参ったな……」
ぐいっと、目元を拭う。
「もう本当に手放せなくなるじゃないか」
「僕は手放してほしくなんかないけどね」
「……っ」
こらえきれなかった水滴が、パタパタとリノリウムの床に落ちた。せめて泣き顔だけは見られないよう、悪あがきで下を向く。ビリーの手が肩に触れ、優しく気遣ってくる。ただそれだけのことが、馬鹿みたいに泣けるのだ。
先に車に戻らせてもらい、グラハムは運転席の中でとめどなく泣いた。涙なんかほとんど流したことがなかったから、人間はこんなにも泣けるのかと新鮮だった。
情けが身に染みる。
心の中が暖かい。
知らなかった。涙は悲しいときにだけ、出るわけではないのだ。
買い物を終えたビリーが戻ってくる頃には、グラハムの涙も収まっていたので、最初の予定どおりに彼の家まで車を動かすことになった。
ビリーが気を利かせて「運転しようか」、と申し出てくれたのだけど、グラハムは彼の運転技術を信用していなかったので、丁重にお断りしたのだった。
「失礼だなぁ、君」
「自覚がないところが嫌なんだ」
買い物同様、ビリーの運転は大雑把なのだ。ミスをしても事故にならなかったからまぁいいや、で済んでしまうのである。一度助手席に乗ってからというもの、グラハムは二度とビリーには運転させないと決めていたのだ。
その道中にビリーが言った。
「今度休みが取れたら、星でも見に行かないかい?」
「星?」
ハンドルを握り、前を見据えたままグラハムは理由を聞く。願いが叶ったこともあり、ここ最近は流れ星を探さなくなったから、その言葉は久しぶりに聞いた感じがした。
「君さ、星なんてまともに眺めたこともないって、前に言っただろ? それでずっと考えていたんだ。見に行きたいなぁって」
「ふぅん……」
あまり気乗りがしないのは、星を見る行為に必要性を見出せないからだ。流れ星を待ったのだって、夜を早く終わらせたかったからに過ぎない。
ビリーはこちらに構わず話を続けた。
「本当に綺麗な星空はね、こういう明るい場所じゃ絶対見られないんだよ。山の上とか平原とか、そういう場所で見る星空を知らないのは、すごくもったいないと思うんだ」
「そうなのか?」
もったいないと言われると、少しばかり興味がわいてくる。もともと、グラハムが星に興味なかったのは、孤児という環境と夜にいい印象がなかったせいだ。
けれど今は、それも変わってきている。ビリーがそこまで言うのなら、行ってみるのも悪くないかもしれないと、思い始めていた。
「そうだよ。あの星空を見たら、君の印象も変わると思うんだよね」
「ふぅん。そうか、それはいいな」
印象を変えられる。
それはグラハムにとって、魔法の言葉に等しかった。
夕焼け空も闇夜も、きっかけ一つで印象ががらりと変わったのだ。ならばきっと、星もグラハムに何かを与えてくれるかもしれない。
それが何かは、行ってみてからのお楽しみだ。
「どこへ行くつもりだ?」
グランドキャニオンか。それともロッキー山脈だろうか。
「僕の故郷のカナダに連れて行きたいんだけど、ちょっと遠いかなぁ?」
「カナダか。いいぞ、どこへだって行くさ」
そうと決めてしまえば、グラハムは迷わない。ビリーの故郷というのも、選択としては最高の場所だと思えた。
かの地で星空を見上げながら、二人で流れ星を探してみるのも悪くない。彼が言うように、一人でほうき星を待つより、何倍も楽しいものになるだろう。
終