春よ、恋
2人の間を風が駆け抜けていく。
2人の視界を桜の花びらが遮る。
それでも,2人の視線は交錯したまま。
まるで互いに射止められたかのように,まつげの一筋さえも動かすことなく。
たとえばそのとき,黒子は自分の気持ちを表現することの出来る適切な言葉を思いつけないでいたし――正確に言うなら何となく頭の隅をよぎるものはあったけれどそれは黒子が以前からずっと気づかないふりを決め込んでいたものだったし――黄瀬は黄瀬で,ついこの間まで毎日顔を合わせていた時は本当にやかましいほど常に黒子に絡みに行っていたのが,少し時間と距離をおいただけあのときのような態度をすぐには思い出せないでいた。
それは,あまりにも唐突であまりにも間抜けであまりにも――劇的な再会。
まさかこんなところで再び彼と出会うだなんて誰が予想できた?
「…黒子っち」
「黄瀬くん…」
驚きすぎて次に言うべき言葉を互いに思いつけない。
とりあえず2人は,すれ違いかけた距離を埋めるために互いに数歩近寄った。
中学のころなら華やかな外見の黄瀬とすれ違って人間観察好きの黒子が気づかないことなんてなかっただろうし,いくら黒子の影が薄いとはいえ黄瀬だって黒子とすれ違えばすぐに声を掛けた。黒子とすれ違ったときに見逃すことなく挨拶をしてくる人間なんて,むしろ黄瀬くらいのものだったのだ。
それが今,2人は確実に数歩分の距離をすれ違った。
すれ違ったというよりすれ違ったことに2人とも一瞬気づかなかった。
たったそれだけのことなのに。
刹那,胸が痛んだのは気のせいか。
「…まさか黒子っちとこんなところで会うとは思ってなかったっス」
思いきり動揺した声音で,黄瀬が先に口を開いた。かすれた声。いっしょにいた友人らしい人たちに目配せで先に行っててと伝えて,彼はこちらへ向き直る。
髪型や服装は変化しているけれど人目を引く顔立ちは変わらない。
黒子は平静を装って,
「ぼくも思ってもみませんでしたよ。驚きです」
「1人で来たんスか?」
「はい。1人のほうが気楽ですから」
「気楽っスか」
はは,と黄瀬は口だけの笑いをこぼした。目線はあまり定まっていない。泳がせてはこちらを見て,また泳がせては自分の足元を見ている。落ち着きがない。
「まさか,黒子っちと会うだなんて」
「えぇ」
「黒子っち,変わってないっスね」
「黄瀬くんは少し背が伸びましたか」
「成長期っスから」
「…」
「…」
黒子は黄瀬の口が再び開くのを待った。
黄瀬の目に映っているものを探す。何かを考えたくて,でも何も考えることができないでいる瞳。
自分から何を言えばいいのか分からない。落ち着きがないのは自分も同じみたいだ。
立ち止まった自分たちには目もくれず,周りの景色は目まぐるしく流れていく。
突き抜ける青空。儚くも散っていく桜。足早にのどやかに,歩き談笑し進んでいく人々。
止まっているのは2人だけ。
正面から強い視線を感じる。
先ほどまで黄瀬と一緒にいた彼の新たな友人たちらしい一団はすでに辺りからは消えていた。ただお互いばったり会えた喜びと懐かしさだけを分かち合えばいいはずなのに,そうもいかない居心地のよくない空間。
黒子が黄瀬の視線から逃れるように半ばわざと目を周囲へ向けていると,
「黒子っち」
「! わ」
「黒子っち,黒子っちって呼ばれたのどれくらいぶりっスか?」
本当にびっくりするような近い位置に黄瀬の顔が来ていて,思わず黒子は仰け反った。
「…ぼくのことそう呼ぶのは黄瀬くんだけなんですから,黄瀬くんと最後に会って以来だと思います」
「最後に会ってからどのくらい経ったか覚えてるっスか?」
黒子は正確に思い出そうとしたが黄瀬は黒子の思考を遮って,
「…おれ実は今の今まで黒子っちに黙ってたことがあるんスよ」
と唐突に言った。
「え?」
久しぶりに会って突然,彼は何を言っているのだろうか。冗談と言うには黄瀬の表情にはいつもの余裕が全くない。変だ。来てほしくない未来が来る予感。
黒子はとりあえず,
「ねぇ黄瀬くん。あの,今いっしょに来てたお友達はいいんですか?」
先行っちゃいましたよと黄瀬の視線をそらした。黄瀬に対する違和感を緩和したくて。
「せっかくいっしょに来ていたのなら,あの,ここで別れちゃわない方がいいと思うんですけど」
別に一度別れたって後から携帯電話でもかけて合流すればいいのだからその提案は本心ではない。
この苦しい会話をなんとか抜け出したくて。
しかし黄瀬は平然と,
「大丈夫っス」
そう答えた彼の目線はいつの間にか泳いでいなくてじっとこちらを見つめているから,黒子はますます目のやり場に困る。
「せっかく黒子っちに会ったんスから,周りに急かされるのやじゃないスか」
「なら,いいんですけど」
ただの久しぶりに会った友達なのに。ぎこちない。言葉の端にある得たいの知れない違和感。
その正体が分からなくて黒子はとにかくやりすごそうと考えるが,
「黒子っち,今大丈夫っスか?」
黄瀬くんの顔がなんとなく怖い。
久しぶりに会うのだから黒子も緊張はしていたし,でも久しぶりに会ったからといって気のおけない友人相手にここまで固くなるものかとも感じたけれど,今の彼の固さは何だかそれらとは異質な気がした。
中学のときのように相好を崩していない。
「…時間のことなら,空いてはいます」
「ならその時間ちょっとおれにください」
「え」
言うなり,黄瀬は黒子の手をとって場所を移動し始めた。
少しだけ,強引に。
ぐいぐいと。
「き,黄瀬くん?」
「ここじゃ邪魔になりそうなんで」
「え,えぇまぁそうかもしれないですけど」
消えない違和感がどんどん決定的になっていく。
何だろう。何がおかしいのだろう。
握られた黄瀬の手がじんわり冷たいことに黒子は気がついた。
目まぐるしく移り変わる景色。頭の中にそれが入り込んでくるかのように,黒子の感情も滝のように怒涛のように巡り回っている感覚があって,それが自分も動揺している証拠なのだと気づいたとき,黒子は自分の心を少し疑った。
溢れ出してくる。
もしかして手が冷たいのは自分だろうか。
周りの音が聞こえない。
自分の心臓が脈打っているのが聞こえる。
繋いだ手から黄瀬の考えが流れ込んできている気がして,黒子は慌ててそれは自分の思い込みだと自分の考えを打ち消した。
心臓が跳ねる理由が分からない。
周りの人間がどんどん減っていく。石段を上る。空気が澄んでくる。自分が回りから浮いたように感じられてくる。
ぼくは影だ。
いつか宣言した言葉がふっと脳裏に蘇った。
ぼくは何を考えているんだ?
自分の気持ちが自分で分からない。
落ち着け自分。
黒子は自分に言い聞かせる。心臓が早鐘を打っている。
自分を引っ張っていた黄瀬がふいに立ち止まり,黒子は黄瀬の背中に少しだけぶつかった。
「黒子っち」
「…何でしょう」
黄瀬がやっと口を開く。
「おれ,黒子っちにずっと黙ってたことがあるんス」
「さっき聞きました」
周りの景色が視界から消えた。
せっかくの景色。広い世界。辺りにはいつの間にか自分と彼だけ。
片手は,繋いだまま。