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背徳と情欲の箱

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カツカツと硬い革靴の音を鳴らし、アルフレッドはほの暗い廊下を、明かりを絞った懐中電灯で照らしながら歩いていた。燕尾服のような制服の裾がふわりと翻る。
 しばらく進むと一枚のドアが彼の行く手を阻んだ。
 あわてることなく、落ち着いた手つきでドアに付いているモニターに右手を合わせ、カメラのレンズを左目で覗き込む。さらにテンキーでパスワードの数字を入力すると、All Greenという文字がモニターに表示され、カチッという音とともにロックが外れて、ドアが横にスライドし、道を開けてくれる。
 中は一本の長い廊下を挟んで両側にずらりとたくさんの扉の並ぶ、一見ホテルの様な場所だった。
 しかし、これらのドアの向こうにいるのは善良な旅行者などではない。
 ――犯罪者だ。
 この場所は、凶悪犯を収監する監獄なのだ。罪を犯した者たちの檻。
 アルフレッドは、ひと月まえにここに配属されたばかりの、年若い新米の看守だった。
 今日は夜勤の当番で、いまから職務として、夜回りを開始するところだ。
 ここの監獄は中央にある、大きな中庭兼、運動場を持つ円形の建物から、放射線状に八つの棟が伸びている。夜勤はそれぞれの棟で二人一組でおこなわれるが、見回りをするときは一人だった。もう一人は当直室で待機することになっている。
 ドアに付いた覗き込み用の小窓から、ひとつひとつ房の中を懐中電灯で照らし、囚人の姿を確認していく。時間は午前二時。囚人たちはみな夢の中だ。
 全ての部屋に異常がないことを確認し、廊下の突き当たりにたどり着く。そこには入り口にあったものと同じ扉がさらにもう一枚あった。
 その前で足を止めたアルフレッドは、いやそうに眉をひそめ、小さくため息をつく。
 この先は独房になっていた。現在約一名が収監されている。その囚人に、出来ればアルフレッドは会いたくなかった。
 しかし、だからといって見回りをしないわけにはいかない。プライバシー保護という名目のせいで、囚人が寝起きする棟の中には監視カメラがないのだ。大袈裟なほど厳重なロックがかけられているのはその為だ。
 覚悟を決めて入り口と同じ手順で――掌紋と虹彩の認証は左右逆なので、間違わないように注意する――ロックを外す。開いたドアの中に一歩踏み入ると、一般雑居房とは違う空気の重さを感じて、決心が鈍った。アルフレッドの後ろでドアが閉じられる。ごくりとのどを鳴らす音が静寂の中でやけに大きく聞こえた。
 独房は雑居房と違ってドアというものがない。廊下と部屋とをさえぎっているのは太くて頑丈な鉄格子だ。広さ三畳ほどの牢……そう言った方が、わかりやすいかも知れない。中には質素なベッドとトイレがあるだけだ。
 主のいない独房をいくつか通り過ぎて、最奥の牢へ。足取りは途方もなく重い。
 突き当たりの壁向かって左側の、懐中電灯の明かりを鈍く反射する無機質な鉄棒の奥にヤツはいた。
 夜中だというのに横になることもせず、ベッドに腰掛け足を組んでいた男が、アルフレッドを見て笑う。
 眠っていて欲しいというアルフレッドの願いは、脆くも崩れさってしまった。
「よう……アルフレッド」
 口の端を持ち上げて顔を歪める、酷く愉快そうな極悪な笑みだった。
 アルフレッドは、いますぐきびすを返して帰りたくなった。姿は確認したから、もう帰ろうと、頭の中でもう一人の自分が囁いていた。しかし、男が明らかに規律違反をしていることを無視するわけにはいかない。
「……とっくに就寝時間は過ぎているんだぞ、アーサー・アークランド」
 牢に近づき、苦虫を噛み潰したような顔で囚人の名前を呼び諌めるが、アーサーはまったく気にも留めず、
「お前に逢いたくて、けなげに待ってたんだぜ……? 愛しのアルフレッド?」
 くくくっ……と、喉の奥で押しつぶした笑みを、歪めた口元から漏らした。その低い声にぞくりと、アルフレッドの背筋が震える。
 片方の眉毛を吊り上げて笑う、凶悪犯らしい極悪な表情の中に、どこかなまめかしい妖艶さを感じてしまい、アルフレッドは心の中で舌打ちをして、アーサーから目を逸らした。
 アルフレッドはアーサーが苦手だった。
 だいたい、初対面から最悪だったのだ。
 勤務初日に、この独房の前までやってきたアルフレッドを見てアーサーは、「お前、俺のものになれよ」と言い放った。
 最初何を言っているのか意味がわからなかった。
 しかし、すぐに情婦になれと言われていると理解し、アルフレッドはたちの悪い冗談でからかわれているんだと思い激昂した。アルフレッドは男だし、目の前の人物も男にしか見えない。というかそもそも、この監獄には看守も囚人も男しかいない。
 怒りに震えるアルフレッドを見て、アーサーは楽しそうにニヤニヤと笑っていた。
 だから、それからも顔をあわせるたびに「そのケツ、たまんねえな。ヤらせろ」とか「いつもお前の事を考えてシてるんだぜ?」なんて、とんでもない言葉をアーサーが自分に向かって言うのは、新人の看守をからかって遊んでいるのだと、アルフレッドは思っていた。
 そう……冗談だと思っていたのだ。
 看守仲間も「ああ、あいつはよく人を見下した態度で、皮肉やいやみを言うんだ」と教えてくれた――愛の告白をされたという者はいなかったが――そのせいで他の囚人との喧嘩が絶えなく、独房に移されたらしい。強いのかとたずねれば同僚から帰ってきた言葉は「無敵」という至極明瞭なものだった。
 最初こそ、つい感情的になってしまったが、その後は何を言われてもアルフレッドは無視を決め込んでいた。なんの反応も示さなければ、すぐに飽きるだろうと思っていた。
 それなのに、ひと月の間ずっと愛を囁き続けられた。
 最近では――考えたくはないことだが――アーサーは本気で言っているのではないのか? 本気で自分を口説いているんじゃないのか? と、アルフレッドが、思い至るまでになっていた。
 だから、アーサーに会いたくなかった。
 アーサーに会うと、うまく言葉で表現することが出来ないモヤモヤとしたものが、アルフレッドの中に生まれるのだ。
 思考が混乱し始めていた。
「可愛い顔を歪ませて、考え事か?」
「!?」
 ふいにかけられたアーサーの、声の近さに驚いて顔を上げると、いつの間に移動したのか鉄格子を挟んでごく間近に緑色の瞳が在った。視線が交わる。
「なあ……そろそろ、俺の愛を受け入れる気になったか?」
 色をたっぷり含んだ声で囁かれ、アルフレッドの肩が思わずびくりと震える。
「……カークランド、君は少し立場というものをわきまえた方がいいぞ」
 そもそも男同士云々という以前に、アルフレッドは看守で、アーサーは囚人なのだ。
 しかし、ふん、と鼻を鳴らして目を細めると、まったく悪びれることなくアーサーは言い切った。
「欲しいもんを欲しいと言って、何が悪い」
「君はっ……!」
 そのときアルフレッドは気づいた。アーサーの瞳に怪しい光が射していることに。
 それは獲物を狙う肉食獣の目だった。
 本能が逃げろと叫んだ。
 なのに、看守が囚人から逃げてたまるかというちっぽけな意地が、アルフレッドの足をその場にとどまらせてしまった。
 ……逃げなくてはいけなかったのに。
「……っ!」
作品名:背徳と情欲の箱 作家名:チダ。