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潤いアイウォンチュー

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ほんの少しの潤いを、貴方に。

ぽたりと落ちる甘露の雫。

熱く緩む鳶色の瞳。





「凄く、お上手なんですね…永田さん」

賛辞に軽く微笑んで、すっと頭を下げてみせる。
背筋は当然真っ直ぐに、決まりきった45度の角度。

「お褒めに預かり、光栄にございます…先生」

ぽわん、と笑った年下の女性を流し見て、永田はカツンとわざと靴底を鳴らして背を向けた。





□潤いアイウォンチュー□





いつの頃からか日常に紛れ込んでしまった、補習風景。
この後にモデルの仕事が控えている翼は既に私服に着替えてコンタクトを装着、完全に仕事体勢に入っていた。
しかしだからといって悠里の補習の手が止まるわけではない。
プリントに刷られた和歌に、難しい顔をして取り組む翼は難解な日本語に舌を巻いていた。
選んだ和歌は万葉集の中でも屈指の恋の歌で、比較的意味を感じやすいだろうと問題にしたのが仇となったのか、翼は一向に答えを導き出せないでいる。

「Shit!…意味が全く分からんぞ…担任!」
「う、うーん…翼くんにはちょっと難しかったかしら?」
「ちょっとではない!か、な、り、だ!」

わざわざ区切ってまで自慢することだろうか。
悠里は額に手を当ててはあ、と溜息を漏らした。
現代文、古文、という括りの前に童話、から国語に入った翼には確かに難関だったかもしれない。
例え現在の翼がれっきとした高校三年生、それも受験を控えているとはいえ、まだまだ学力は他の生徒には遙か遠く及んでいないのだ。
少しは学力がついたと思っていたのは気のせいだったのだろうか。
悠里は落ち込みそうになる自分を奮い立たせ、キッとプリントを睨みつけた。

「これはね、狭野弟上娘子が流罪になった恋人に宛てて詠んだ歌なの。ほら、よく見てみて?君が行く、道の長手を…ってあるでしょう?」

歌の解説をしようと身を乗り出し、綺麗にコーティングされた爪の先で文章を辿る。
俯いたことで流れた髪を耳に掛け直して悠里は言葉を続けた。
さらり、と肩をミルクティブラウンの髪が滑り落ちる。

「これは、どういう意味だと思う?相手は流罪になった恋人よ?」
「っ…、そ、そうだな…君、というのは男を指すんだろう?だとすれば男までの距離、ということか?」

慌てた様子でくるりと「君」という漢字を丸で囲んだ翼は、首を傾げながら先の文章を読んだ。
いつもは流暢に英語を操る声が今よりずっと昔の時代に詠まれた古い恋の歌を読み上げるというのは不思議な感覚だ。
悠里は心地よい声がそれを読み上げるのを聞き、その激しい恋情にうっとりと妄想を馳せた。

(こんなにも誰かを愛することが出来るって凄いことよね…もしもそんな風に誰かに思われたとしたらどうしよう…!や、やだ悠里ったら何考えてるのかしら。でも…そうね、つ、翼くん、とか?きゃー!だめよ、生徒と教師の禁断の恋じゃないのー!でも、やっぱり夢見ちゃうわよね、こんな風に激しい恋心を抱くだなんて…教師と生徒、分厚い壁に阻まれた私と翼くんの行方はいかに!?って…やだわ本当に私ったら教師失格になっちゃうわ!)

だめよ悠里、とぶんぶんと首を振ったところで肩に軽い衝撃を感じ、悠里はハッと顔を上げた。
コホンという咳払いに首を捻るようにして横を向けば黒いスーツに身を包んだ翼の秘書、永田が立っている。
一体どうしたのだろうと目をぱちぱち瞬かせると、永田は涼しい顔をしながらそっと悠里にささめいた。

「先生、差し出がましいようですが…全て、口からお言葉が出ております」
「えっ?」
「先生がそのように身を焦がすような恋をなさるのでしたら、翼さまでは少々荷が重いかもしれませんね」

ふっ、と笑った口許は綺麗に弧を描いている。
思わずどきりと胸を鳴らして顔を赤くすれば、永田はますます笑みを濃くした。

「翼くんは?!あの、永田さん、翼くんはどこへ…」
「翼さまは先生が思考の海に浸っておられる間に撮影所に向かわれました。何やら頬を赤らめておいででしたが…まだまだでございますね」
「な、永田さん、そんな冷静に状況判断しないでください!ああもう!逃げられちゃった!」

失態を思い、悠里は顔を赤くしたり青くしたりと忙しなく一人で顔面百面相を開催している。
流石に本人の目の前で禁断の恋の妄想を聞かせてしまっては教師としての立場がない。
これをもし二階堂に聞かれていたら冷たく説教されること請け合いだ。
しかも妄想の最中に当人は逃げ出してしまい、更には冷静な秘書に突っ込まれる…これほどの恥があるだろうか、いやない。ないに決まっている。

「ああ…もう、何で私ったら全部口に出しちゃうのかしら…っつ!」

がっくりと項垂れた拍子に、今度は髪の先が鋭い痛みとともに目の中に飛び込んできた。
痛みに驚いて慌てて目を擦ったせいで今度は睫毛まで目の中に入ってしまう。
踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
悠里はべそべそと涙を浮かべながら必死に睫毛が流れていくのを待った。
無駄に広いバカサイユの中を横切って鏡の前まで行くには、涙で視界が悪すぎるのだ。

「先生、少し失礼致します」

じっと耐えていると、突然声を掛けてきた永田の長い指が悠里の顎を捕らえたかと思うとぐっと上に向けられた。
痛みで目が開かない悠里の右目を覗き込む、永田の顔がやけに近い。
普段は翼の傍で影のように控えている男に触れられたのも、こんなに近づいたのも初めてだ。

悠里より年上の、落ち着いた空気を纏う永田。
あらゆる技能を身につけ、彼より素晴らしい秘書はいないだろうと誰もが納得する男。
その顔も涼しげに整っており、悠里は微かに唇を戦慄かせた。

「え…、あの、永田さん…?」

涙をそっと白いハンカチで拭われ、驚きで少しだけ大きく開いた目にぽちゃんと生温い雫が落ちる。
呆気に取られているともう一粒、更にもう一粒と落ちてきて、とろりと溢れた涙と一緒に睫毛が一本押し流されていくのが分かった。
鋭い痛みの残骸だけがある右目を瞬かせ、悠里はそこでようやく永田の手にしていたものの正体を知る。

「目薬にございます。決して危険なものではございませんよ。目の調子はいかがですか?」
「あっ、もう大丈夫です、有り難うございます」

潤んだ瞳で永田を見詰め、悠里は濡れた睫毛をふさりと揺らした。
先ほどまでの異物感は綺麗さっぱりとなくなっている。

「凄く、お上手なんですね…永田さん」

目薬を点すのが、と悠里は笑う。

「お褒めに預かり、光栄にございます…先生」

きっちりと見本のようなお辞儀をする永田に、悠里はほうっと感嘆の息を漏らした。
完璧な秘書。
完璧な男。
そんな相手に目薬を点してもらうというまるで近しい人であるかのような行為をされ、悠里の頬は熱を孕むばかりだ。
しかしそんな悠里の視線を受けても永田はただ澄ました顔で微笑むばかりで何も口にしない。
それが秘書たる彼の取るべき態度なのだろう。

「では先生、私もそろそろ失礼致します。翼さまが撮影所で待っておられますので」
「はい、どうも有り難うございました!気をつけて行ってきてくださいね」
「ええ、先生も気をつけて…あまり本気になってはいけませんよ」
「…え?」
作品名:潤いアイウォンチュー 作家名:ユズキ