『幸せ』という名前
数人の声が潜められてはいるが、いかんせん廊下のため、反響してつい聞こえてしまう。
「おい奥村先生、卒業と同時にプロポーズしたんだってよ。」
「まじかよ!18歳でもう身固めるとか早すぎねーか?!」
「さすが奥村先生だな……。勇気あるな……。」
「しかも相手は霧隠先生だってよ!」
「えっ?!霧隠先生って、あの霧隠先生?!」
「そうそう、『あの』霧隠先生だよ。」
「まじかよ……。すげぇな……。」
「……。」
老若男女問わずとかく噂話が好きな人間が多いものだ。好奇の視線には慣れている。そういった視線にはすぐに気付くけれど、一々反応するのは面倒事にしか発展しないことを中学生の頃から嫌というほど学んできた雪男は、廊下で彼の話をしているらしい三人の男性講師に一瞥をくれただけで構内をすたすたと歩き去った。
「すみません、遅くなりました。」
講師室の扉を開ければ、シュラが雪男に宛てがわれた机の椅子にあぐらをかいて大あくびをしているのが見えて、反射的に謝罪の言葉が口をついた。
「うんにゃ、湯ノ川先生と世間話してたからそんなに暇じゃなかったにゃー。」
「……そうですか。帰りますか?」
「ほいほーい。」
必要最低限のものだけはホットパンツのポケットか胸の印に収めているらしく、今日も手ぶらで身一つのシュラがふらふらと浮雲のように扉へ歩いていく。
今帰ってきた所で明日の授業のために必要な物をまとめられていないこっちのことも考えろよと言いたくなるが、雪男は結局何も言わず、授業前にある程度整理して入れておいた鞄の中に先程まで使っていた教科書類を突っ込み、手早くジッパーを上げて肩にかけた。
「それじゃ、失礼します。」
講師室に残っている講師達ににこりと人当たりのよさそうないつもの笑顔を浮かべて挨拶をしてから、雪男は少し前に出ていってしまったシュラを追いかけた。
「ただいま。」
「あー……まじいい匂い……腹減った……。」
鍵を使って空き教室の扉から家の玄関へ一瞬でたどり着く。早速鼻腔を刺激する燐の手料理の匂いに、ふわふわと陶然とした声になるシュラが足を前に出した。
「お!雪男もシュラも!お帰り!」
一足早く帰っていた燐が台所から顔を出し、二人の姿を認めて笑顔になる。
高校を卒業してから寮を出て、すっかり人の減った南十字男子修道院と家を引き取って、補修して、掃除をして、燐とシュラとそこに住むことにした。燐も三年前まで住んでいた修道院に再び住むことは喜んで賛成してくれたし、雪男自身も父と慕った藤本獅郎と兄の燐と共に過ごした時間を内包したこの修道院には特別な想いを抱いていたためにいつか必ず戻ってこようと決めていた。ここは雪男にとって決して揺るがない家族の場所なのだ。
陳腐だと笑われてもいい。くだらないとけなされてもいい。みっともないと嘲られてもいい。どんなことをしてでも守りたい、これは確かに幼い固執なのはわかっている。形ばかり求めて、手に入れたところで形骸かもしれない。けれど、縋らずにはいられない。自分の弱さにほとほと呆れ果てるのに、一旦手に入れたものを手放すことは考えられないのだから、本当に自分は幼い。
雪男にとっては、燐もシュラもこの修道院も、全部、守りたい、手放したくないものなのだ。
「もうすぐ出来るから着替えてこいよ。今日は俺特製カレーだぜ!」
シュラが燐と二言三言交わして、燐も楽しそうに笑う。そんな何気ない光景が、雪男の、十数年前から虚ろだった心のどこかに、何をしても埋まらなかった空白に、染み込んでいく気がした。
燐に言われた通りに自室へ行き鞄を下ろしてコートを脱いだ。シュラもコートを脱いでコートハンガーにかけている。彼女は今でもコートの下はほぼ裸のような格好をしていて、今日だってそうだ。
「……シュラさん、そろそろやめないんですか?」
「何を?」
「その格好ですよ。下着みたいなのとホットパンツと網タイツ。」
「またかよ。別に取り立てて面倒がないからいいじゃん。」
「貴女自分が今年で何歳になるかわかってない訳じゃないでしょう?もう三十路じゃないですか。」
「三十路とか何の話~?シュラちゃんちょっとわっかんにゃ~い。」
「いい歳して気持ち悪い言葉遣いすんな……!」
「……お前な、成人女性に年齢の話はタブーなんだよ、今後の為に覚えときな。」
はぁっとため息をついた後、いつも人を食った笑みを浮かべたシュラに人差し指で鼻をとんと突かれ、たじろぎそうになるのをぐっとこらえる。
「話を逸らさないでください。それに前に僕が聞いたことの答えも。まだ貰ってない。」
「えー……なんだっけ?」
「……。……子供。産むなら早い方がいいでしょう。僕はともかく貴女に負担がかかるんですから。」
「あ、ああ……子供、ね……。」
すっかり忘れて墓穴の中に墓穴を掘り直してしまった自分の迂闊さを呪いながら、シュラは燐が夕飯ができたからと呼びに来てくれたりしないだろうかとちょっとした現実逃避を平行して考えて、目の前で自身を見つめてくる雪男から目を逸らした。
「……欲しくないですか?」
「いや、ほら、だって妊娠なんかしたら戦えなくなるじゃん?」
祓魔師は万年人員不足だし、シュラは有能な祓魔師であるからあちこちから引っ張りだこである。そんな大義名分の他に、身重で戦えなくなるのはつまらないという非常に個人的な思いも抱え、正直なところ膨れた腹を愛おしいものとしてやさしい瞳をして撫で、小さい赤子を慈しんであやす自分の姿を全く思い描けないということもある。こんな、人として色々と欠落した自分が母親だなんて、生まれてきた子供が不幸だ。
正十字学園の卒業式の後、祓魔塾の塾生達だけで集まってそれぞれの卒業と進路決定を祝う席で雪男に結婚して欲しいと言われた時から、そうした未来を一度も考えたことがないと言ったら嘘になる。
雪男の子供をこの身に宿して、子供を産み、二人がかりで育て、小さな波乱に満ちた穏やかな日々を三人で過ごす――前線から退いて、家庭に入り、剣を握るよりも赤子の小さな手を握る回数が増えて、雪男の帰りを子供と二人で待つ――前も後ろもわからない、ひりひりする生と死の焦燥感の間で育ち、そこから掬い上げられて人間らしい感情を知り、強く欲したものが叶うことのない絶望を与えられ、壊れてもいいとさえ思いながら尖らせてばかりきた荒んだ心が、唯一無二の物を得て、次へと続く物を紡ぎ、安らぎを得て丸くなる――。
でも考えるたびに想像は途中でぷっつり途切れ、その先はいくら考えてもわからなくなる。
考えて考えつかなくて諦めたはずのことを、気付けばまた考えている自分を嘲笑したことは何度あっただろうか。
「任務中に死ぬかもしれないのに、戦いたいんですか?」
「だってアタシはそれしかできない。それに、案外生死を賭けた駆け引きも嫌いじゃないんだ。」
「僕は……貴女の生きがいにはなれませんか?」
「……。」
生きがい。
生きがい、かもしれない。くだらなかった昨日の深夜番組について雪男と話したりするのは楽しいし、たまに見せる甘えた部分や歳相応な部分は愛おしいと思うし、そんな愛おしいものをこの手で抱きしめられることは幸せだと思う。