『幸せ』という名前
でもそれなら他の楽しいやつや楽しいことも全部生きがいになってしまうんじゃないかとか、どうでもいい末節ばかりがぐるぐる頭の中で渦を巻く。
「……。」
「…………。」
「…………。」
無言を保つことでシュラの答えを待ち続ける姿勢を言外に示して、シュラを真っ直ぐ見つめてくる雪男の顔を見られなくて、シュラは目を伏せながら重い口を開く。考えてもわからないなら自分の口が重くても本心をぶつける。それがシュラの誠意だからだ。
「…………ごめん、今はまだ、わからない。子供も、欲しいと思ってる訳じゃない。」
「……そうですか。」
わかりやすく顔には出さないが、シュラの答えを聞いて横を向いた雪男の落胆と拗ねた気配を感じ取って、シュラは目の前の、元々歳不相応だった面立ちもさらに成長してそろそろ本当に少年とも呼べなくなってきた彼を、背も伸びて肩幅もあって自身よりも大分大きくなった彼を、とてつもなく愛おしいと思った。
「雪男。」
呼べばこちらを向く雪男を衝動のままに抱きしめる。三年前ならまだ抱きしめるという表現もふさわしかったのに、今じゃこっちが甘えてるみたいだと思うと笑いが込み上げる。
「……ごまかしなら結構です。」
「かっわいくねぇな。ならこの手はなんだよ。」
どうにも勘違いした雪男にむっとした声で返されて、そのくせ雪男の手はシュラを抱き寄せる形で回されていて、シュラはたまらなくて笑ってしまう。
「……僕が、そうしたかったから。」
「うん。アタシもこうしたかったから。」
急に名前を呼ばれて抱きしめられて、またいつもの適当なご機嫌取りかと思っていらついても、ふわりとシュラの匂いがして温かな柔らかさを感じてしまえば不思議と心が素直になってしまう。……シュラはずるい。
「おーい?晩飯でき、」
「!」
「あ。」
「あ、わ、お、ば!じ、じじじ邪魔したなごゆっくり!!!」
がちゃりと扉を開けたところに密着する雪男とシュラを見てしまい、顔を真っ赤にした燐が叫びながらばたんと盛大な音を立てて扉を閉めて一瞬で出ていった。
「いや、ごゆっくりって冷めるからすぐ行く……って、聞いてねぇよなー。」
扉が開いた瞬間にぱっと手を離していたシュラだけが悠然として、扉の方を向いて固まってしまった雪男の頬をつついた。
「おーい、雪男、夕飯できたらしいから早く行こう。雪男ー雪男くーん?奥村雪男さーん?」
「…………。」
片手で顔を覆ってはあああと盛大にため息をついた雪男が、兄さんと一緒の食事が今日は憂鬱だ……と呟くのを見てシュラは可笑しくてしょうがなかった。
「セックスの最中を見られた訳じゃあるまいしそんな気にかけることないだろ、つーかあいつはなんなんだ、本当に18か?!しえみと付き合ってんじゃなかったっけ?」
セックス、とシュラのあからさまな言葉に顔をしかめて、けれど何も言わないで雪男は答えた。
「ええ、そうですよ……でも付き合ってると言っても未だに手を繋ぐのも緊張するらしくて……。」
「ぶにゃっはははは、にゃははは!いつまで中学生の恋愛してるんだか!……でも、それもアイツららしくていいのかもね。」
「……そうですね。ゆっくりゆっくり。……。」
元々性格に難がある自分達には決して真似できない優しい幼さで成長していく二人の関係はいっそ眩しいくらいだ。雪男もそう思っているのだろう、目を細めて少しばかり微笑んでいる。
部屋から出て台所へ向かう。台所と食卓が同じ部屋にあるのだ。
「そういえば。」
「ん?」
「どうして僕が貴女に酷い勘違いしても、それに気付いてるくせに指摘しないんですか。」
「あー……。」
さっきの抱擁は雪男のいじけた心に気付いたシュラのご機嫌取りではなくもっと素直なものだったのだとふと気付いた。雪男の言葉は不当にも酷くシュラを非難するものだったはずだ。なのに、それにシュラが気付かないはずはないのに、どうして自分を悪者めかして、正当な主張ができるにもかかわらず言葉を隠すのか、雪男にはその心情が理解できない。
「んー……まあ、ほら、そういうのも自業自得かにゃーって。」
雪男を適当にあしらうことがなかったなんて決して言えないし、むしろ昔からからかってばかりで本気で向き合ったことなんてほとんどなかっただろう時間が今までの8年くらいの間の大半だったのだから、雪男が勘違いするのもしょうがないというか、まあ自分の振る舞いが悪かったとシュラは思う。
いつからか自分の突かれたくない部分を隠してふざけた振りでごまかして、何にも本気にならない顔を繕って、のらりくらりと躱すのが癖になっていた。これが大人になるってことならなんてくだらないものに憧れていたのだろうと呻いたこともあった。獅郎に育てられたせいか獅郎のようになりたいと思っていたせいか、そんなところばかり似て、しかも目指したい獅郎の強さや優しさには程遠い自分だから嫌気がさす。
いつだって真っ直ぐでいられる人達を羨んで、それでも心の1番奥底にいる臆病な少女には何重にも打ち立てた防壁を今更取り払って真っ直ぐ自分をさらけ出すことは恐ろしくて、身動きが取れないままなのだ。『今』に安住している自分には因果応報だと、甘んじて受け入れようと。
だからシュラは何も言わなかった。雪男が感じるままに任せた。
「……はあ?……つーか何が自業自得だ!何勝手に自分で全部判断つけてんだ!」
「ゆ、雪男?」
「戦闘の時ならそれがベストなんだろうけど、そもそも今は違うし、アンタはいい加減僕とのコミュニケーション上手くなれよ!」
「ハ、ハイ……。」
どうしよう、雪男が怒った。
普段温厚な表情を取り繕っているせいなのか、雪男が怒ると結構怖い。
「……………。わかってないですね?シュラさん。……でも、僕も……怒ったりしてすみませんでした。」
「え、あ、や、うん。」
ため息をついた雪男に小さく非難する瞳をされて、シュラは曖昧な返事ともつかない音を零す。
「別にいいですよ。今わからないなら、わかるまで言い続けます。」
そう言うと雪男はすっとシュラの手を握って、燐が待っている台所へ向かう。
雪男の方からこうした雪男が苦手なコミュニケーションを取ることで、このてのひらから仲直りしたい気持ちが伝わればいいと思った。拒まないシュラの柔らかなてのひらは許されたような安堵感を雪男にもたらしてくれる。
「っ!……雪男、お前ホント可愛くなく育ったな。」
「可愛くなくて結構です。」
お前昔は不器用だったのにいつから欧米人になったの?
じゃあちょっとどきっとした、がよかった?
この手何?
いくつかのクエスチョンが脳内を巡り、どれを言おうかと一瞬ばかり逡巡して、結局シュラは何も口にしなかった。
ただ雪男の露出した耳が主張する持ち主の感情を見て、ちょっとだけ笑って、
「ゆーきお。」
「なんで……ッ……!」
律儀に振り返る雪男の頬に柔らかい唇が触れて、雪男は息を詰める。
「……ッ、シュラさんっ!」
「さーカレーカレー♪」
繋がれた手をするりと解いたシュラが廊下を跳ねるようにして歩いていく。
追い付こうと走りかけながら、ああ、と雪男は思った。