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粉雪

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 ――その日も雪が降っていた。

「…大佐、そろそろ中にお入りください」
「ああ…」
 生返事の上官に、副官は眉を顰めて息を吸う。何も無いときなら勝手を許しもしたろうが、生憎と今はそういう状況ではなかった。
「大佐」
 幾らか語気を強めれば、唯一と認めた男が困った顔をして振り向き、肩をすくめた。
「…悪かった。仰せのままに」
「…しっかりなさってください。…あと、数時間なのですから」
 真剣な部下の言葉に、男は表情を消し、黙って頷いた。そして一度長く瞑目し、…それから長く息を吐いた。
「…そうだな。あと、数時間だな…」
 ――この国に長らく独裁を敷く隻眼の男へと叛旗を翻す。成功すればそれは革命となり、失敗すれば自分と自分を信じてついてくれた者たちは反逆者として罰せられる。だがもはや退くことは出来ないし、第一その意思はなかった。
 その作戦を控えた今、ぼんやりと外を眺めていて体調を崩したなどとあってはいい笑いものであろう。副官の心配はもっともすぎるものだった。
 だが…。
「……あの日も雪が降っていたな…」
「…大佐…?」
「いや…、なんでもない。――さて、行こうか」
 未だ若さを大いに残す男は、何かを振り払うように軽く頭を振って歩き出した。その足取りには何の迷いも無いように感じられた。
 外では音も無く、白い雪が舞っていた。数時間後に幕を開ける流血劇などそ知らぬ風で。





 その日は朝から雪が降っていた。
 イーストシティで雪はそこまで珍しいものではなかったが、といって、当たり前のものというほどに親しまれたものでもなかった。
 通りを白く覆った雪に、人の姿はごくまばら。風が出てきてはなおさらだった。
 そうして通りの絶えた道。
 そこを、まるで浮き出たように、あるいはしみたように黒いひとつの姿が重苦しく歩んでいた。足を引きずるようにしているのは、もしかしたら負傷しているのかもしれない。上から下まで黒に覆われたその姿はあまり大きくは無く、一見して大人ではなかった。しかし、子供だとしたらそれも妙な話で、纏う装いや、何よりその悪天候を一人で歩いているところなどはごく普通の子供にはありえない話であった。
 目深にかぶったフードは汚れており、ひょっとしたらはじめは黒ずんでもいなかったのかもしれない。だが、今となってはそれは意味の無い仮定に過ぎず、確かなのは、その先から零れ落ちているのが雪にも溶けそうな金色を為しているということだけだった。
 やがて、どさり、ととうとうその人は雪の中に倒れ伏す。
 だがそれを見咎めるものは誰もいなかった。
 ――いなかった、はずだった。
「……おい」
 通りのないはずの道を、なぜか一台の車が通りすぎたのだ。
 車など、一般人からは程遠いものである。もしも所有しているとしたらよほどの資産家か、あるいは軍しかありえない。そしてその車は、その後者に属するものだった。飾り気の無い作りからしてもそれが伺える。
 だがそこから降り立ったのは、軍人にしては雰囲気の明るい男だった。明るいというか、若いといったほうがいいかもしれない。
 彼は億劫そうに、倒れこんだ黒い影に近づき、そしてためらいなくしゃがみこんだ。そうして、うつぶせに倒れた人物の肩を抱き起こし、仰向けにさせる。
 とたん現れたのは、まだ若々しい、というよりいっそ幼いとさえいえる少年だった。どうにかすると、そのはかなげな容貌は少女めいてさえ見えるが、おそらく少年であろう。掴んだ肩の骨格から、軍人はそのように判断をつけた。
「おい、起きろ」
 軍人はぺちぺちと少年の頬を叩いたが、反応は無かった。それどころかその白い顔色は、いまや蝋人形のように青ざめていた。唇も紫色にひび割れている。
「…まったく」
 軍人は、まいったなという顔をしながらも行動は迅速だった。すぐさまその少年を抱き起こすと、停めていた車の後部座席に押し込め、そのまままた運転を再開したのである。
 無論、彼が行ったのは人命救助の一環だった。



 しゅんしゅん、と鳴るのはおそらく湯を沸かしているのだろうと思った。
「……」

 ――あったかい…

 おぼろげに上を見て、それが見知らぬ天井であることを知る。指先は、さまよった毛布の中に暖かさとやわらかさを同時に見つける。体を受け止めているのからして、スプリングの利いた、広い、そして清潔なベッドだ。
 すくなくとも、自分が知るどの場所とも違うことだけは明らかだった。
「………」
 だが、ひどく心地よくて、一度開けた目をもう一度閉じる。閉じても瞼の向こうから光が射してくるこの場所は穏やかで、なんだか泣きそうになった。
 と、不意に、人の気配がして、やんわりと薄目を開けてみた。
「……?」
 それは男のようだった。
 部屋に入ってきた男は、しかしすぐに自分に背を向け、どうやら自分の頭の先にある窓辺で何かをしているらしい。ガチャガチャいう音に混じって、「どうもリールのすべりが良くないな、やはり…」という嘆きが聞こえた。なるほど、カーテンのしまりが良くないらしい。
 なんとなし、ベッドの中からその背中を見上げた。
 後姿からはなんともいえないが、まだ若そうに思えた。そして、ぴんと伸びた背筋からは、育ちのよさのようなものを感じた。
 じっと見ていたのに視線を感じでもしたのか、ぼんやりと見つめていたこちらを、不意に男がぴくりと背中を揺らした後、振り向いてきた。
「……」
 瞬きもせずに見つめた男は、見知らぬ相手だった。
 だが、深く吸い込まれそうな黒い瞳をしていて、息をするのも忘れて見入ってしまう。
「…起きたか?」
 男は最初こそ驚いたように目を瞠っていたが、すぐに目を細めると、懐こい顔をして笑い、こちらをのぞきこんできた。大きな手で唐突に額を撫でられたときには、驚きのあまり目をつぶってしまったものだ。
 だが、男は楽しげに笑っただけだった。
「うん、すこし熱も落ち着いたようだ。よかったな」
「………?」
 親しげな態度にやさしい言葉。
 少年が、随分と昔に知っていた暖かさにそれは酷似していて、泣きたい気持ちが強まった。
「…どうした…?」
 実際、その気持ちはどうしようもないほどに高まり、ぎゅっと閉ざした瞼に水分が滲むのはすぐだった。
 だが、その見知らぬ男はやさしげにそう問うだけで、実質その答えを求めることも無く、ただゆっくりと少年の髪や額を撫でてくれていた。
 外ではしんしんと雪が降り積もり、街は静けさの中に包まれていた。

 ――それは、今から少し前の、ある年の冬の話だった。


 男は、最初から相手の素性に気づいていたわけではない。
 最初はただの浮浪者か何かと思ったくらいだ。ただ、目の前で凍死されては夢見が悪かろうという程度の思いから、助け起こしたのに過ぎなかった。
 だが、助け起こし、しばらく車を走らせてから、その少年の姿を目にしたことがあったのを思い出した。
 ――中央は、大総統府、その一角。
 国家錬金術師の総括たる、直轄府の回廊。そこで一度だけ、その相手とすれ違ったことがある、その光景を。
 男、軍では大佐の位を戴く、ロイ・マスタングは最初その事実に当惑した。
作品名:粉雪 作家名:スサ