粉雪
相手は史上最年少の国家錬金術師にして、大総統の懐刀、あるいは稚児とも囁かれる錬金術師。その経歴は謎に包まれており、一介の佐官に知ることの出来るものではなかったが、少なくともロイは、彼が稚児などではないことを知っていた。なぜなら彼の練成と、彼の功績の一部を知っているからだ。
彼はロイが知る限り唯一、連成陣を必要としない錬金術師で、そして過去幾度も、前線において多大なる戦果を挙げてきた。それも、いつだってたった一人で。援護する部隊はあったが、それはあくまで援護であって、共同作戦ですらなかった。少年が作る突破口に後続の部隊が突っ込んでいく、あくまでその程度の…。
鋼の錬金術師。
まだあどけないとさえ言いたくなる少年に与えられた厳つい銘は、戦場での彼の姿を知る者には寒気さえ起こさせるという。
それくらい、彼は、あまりにも「違った」のだ。
だからロイもすぐにはそれが「あの」鋼の錬金術師だとは思わなかった。そもそも、きちんと顔を見たことだって数えるほどしかなかったし、…それに普段の彼は、トレードマークのように、真紅のコートを纏っている。それが今日はなかった。
しかしそれでも、その子供はあまりにも印象的だったから、絶対に彼に違いあるまいと確信もした。
彼が、そう、大総統の懐刀と言われる彼が、なぜ東部にいて、こんな雪の日に街路に倒れていたのかはわからない。本当は係わり合いになるべきではないのかもしれない。
だが、それでも、気がついたらロイはその子供を助け起こし、滅多に他人を入れない自宅に運び込み、着替えさせて暖を取らせた。意識の無い彼がこれ以上凍えないよう部屋を暖め、ありったけの毛布を引っ張り出して。
どうしてそんなことをしたのか、ロイにもさっぱりわからなかった。
薄らぼんやりと目を開けた少年だったが、意識をはっきりさせるには至らなかったらしい。ロイが髪や額を撫でてやっているうち、再び眠りへと落ちていった。呼吸はだいぶ楽になっているように思えたが、熱はまだ幾分高いようだった。
…当たり前の話だが、あんな雪の中で倒れていた彼は、熱を出していた。直接の原因など考えるまでも無い、…が、間接的な原因は幾らか考えておくべきだろうとロイはぼんやり思っていた。
再び眠ってしまった少年の横顔を見つめながら。
とりあえず、もう一度起きたら何か食べさせて薬を飲ませよう、としばらくして我に返ったロイは思った。自分が普段健康な性質なので薬の所在がいまいち怪しいが、…まあ何か1錠くらいは出てくるのではなかろうか。
「…消化の良いもの、だろうなぁ…」
少年にかけてやった掛布の端をとんとんと押さえてやってから、男は困ったようにため息をついた。
そういった食材にもあまり心当たりが無い。
普段、家ではあまり食事をしないので。
「………」
しかし、外は雪である。気の利いたデリバリーなど動きはしないだろう。いくら大枚をつんだとしてもだ。
ロイはしばし、頭の中で近所の地図を探ってみた。薬と食料が一度に解決できる場所が近場にあるといいのに、と祈りながら。…しかし、検索結果は芳しくなく、彼は諦めてキッチンの保存庫を探すことにした。
まったく、備えあれば憂いなしとはよく言ったものである。普段の備えがないせいで、現在大変憂慮すべき事態に彼は陥っているのだから。
ふっと、不意に目が覚めて、少年はあたりをもう一度見回した。先ほどはふわふわとして意識が覚束なかったが、今はそれよりは幾らか頭がはっきりしてきた気がする。
「……みず…」
口の中がべたつくような感覚に、水が欲しい、と本能的に思う。と、ほんのわずか体を動かして、驚いた。
ベッドサイドに、デカンタとグラスが置いてあったからだ。デカンタの中には透明な液体が見て取れて、それは水に違いない。
少年は黙って半身を起こし、震える手でデカンタを手に取った。指先が震えているせいで、ガラスが高い音を立て、一瞬割れるのではと肩をすくめてしまった。
すると、その音が聞こえでもしたのか、足音が近づいてきた。あ、と思う隙もなく、近づいてきた誰かの手がデカンタを取り上げ、呆気に取られているうちにグラスに水が注がれる音が聞こえてくる。
そして――、
「…飲めるか?」
気がついたら、背中をたくましい腕が支えてくれていた。
そして、唇にはガラスの感触。目を閉じて首を頷くように動かし、上下の唇でグラスをはさむようにした。飲みたいという意思を過たず汲んで、男は、そっとグラスを傾けてくれた。背中を支えて押し出して、飲みやすい体勢を作るのに力を貸してくれる。
したいことを読み取ってくれる男の聡さというかやさしさに、少年の涙腺が滲みそうになった。昔、本当にそんなに昔ではないが、家族と一緒に暮らしていた頃のことを思い出していた。
こくりと飲み込んだ水が喉を伝う。最初は咥内の唾液のようなものが混じってしまったが、次第にそれはただの水になり、喉を潤した。焦ってしまって口の端から水が滴り落ちる頃には、慌てたせいでむせてしまっていた。
しかし男は慌てた風も無く、怒るでもなく、グラスを外して背中を擦ってくれた。むせたせいにして涙をこぼしてしまったことに、気づかないで欲しいと少年は祈っていた。
この男がどうして自分にここまでしてくれるのかはわからない。見知らぬ男だが、もしかしたら自分のことを知っているのかもしれないとも、今は思い始めていた。彼からは微かに知った匂いがするような気がしてきてもいたからだ。
「……もう少し飲めるか?」
背中を預けた姿勢のまま、少年は首を振った。
「…そうか。…何か食べられないか?といってもたいしたものはないんだが…」
そこで男は笑ったようだった。苦笑といったほうがいいような笑い方だったが、それでもその笑いにひかれて、少年は薄目を開ける。すると、こちらをのぞきこむ格好になっていた男の、その黒い瞳と目があった。
「………だ、…」
名を問おうとした言葉は最後まで声を伴うことは出来ず、そんな少年に、男は困ったように笑った。
「こちらに持ってこよう。少し待っていてくれ」
男はそういって、少年の背を支えたまま、枕やら毛布の上に積まれた服や別の毛布(とにかくありったけの布を持ってきたのだということがそれを見てようやく少年にもわかった)を適当に片手で集めて、背もたれを作ってから小さな背中の支えにしていた腕を抜く。だが少年はベッドに逆戻りすることも無く、そのクッションに埋もれることになった。
男は幾らかぎこちない手つきで金髪を撫でると、拾った少年に一度背を向けたのだった。
どうにか見つけだした缶詰のスープを温めたものと、帰りがけにもらったビスケットを持って帰った。ビスケットは硬そうだが、スープに浸せばまあ何とかなるかもしれない。せめてパンくらい買っておけばよかったと嘆くが、後の祭りである。
もとより、パンを焼くなどという芸当は逆立ちしてもできっこない。もしかしたらパンケーキくらいは作れるのかもしれないが、…たとえ小麦粉の買い置きがあったとしても、やらない方が無難に思えた。
男は自分の家事能力についての過大評価は避けた。身の程を知っていたというか。