理不尽の解答
我がシンドリア随一の優秀な政務官は、年端もいかない子どもが戦いに関わることをとても嫌がる。
理不尽に幼子が傷つくのを見たくないのだというのは、彼の過去に起因しているのかもしれない、
というのはシンドバッドの推測でしかない。
そういえば、国に食客なり部下なりのジャーファルより年下の者を連れてくると、なにくれとなく世話を焼いていた。
子ども相手となると、普段は厳しい政務官の顔はなりをひそめて、ついつい甘やかしてしまうのもジャーファルの特性。
どうやら本人には甘やかしている自覚はないらしいが、たまにはそれと同じくらい自分を甘やしてくれてもいいのに、とは思う。
「理不尽だ」
「………何がです?」
また何か言い始めたぞこのサボり常習魔めが、と、聞き返すジャーファルの顔にはっきりと書いてある。
何かと言い訳をしては仕事を放り出して、市中に逃亡を重ねてきた我が身が招いた不信であるには違いないが、今の発言は何もここから逃げ出すためのものではない。
だから、氷のような視線にも胸を張って平然と言い返した。
「理不尽だ、」
と。
「だから。何がです」
理不尽の内容は告げられないものだから、我が政務官殿はますます不審気に眉を潜めるばかりだ。
しかし、それにも負けずに瞳に力を込めたまま見つめ続ける。
大抵の人間なら、この視線一つでほだされてくれる。
シンドバットの熱を込めた瞳には、どうやらとろりと相手の心を溶かす効力があり、老若男女を問わずこれで籠絡してきた実績がある。
こちらが腰掛けて、相手が立っているという位置関係も都合がいい。
自分で言うのもなんだが、かなりの美丈夫であるシンドバッドに下から見上げられるというのはどうやら相当ぐっとくるものらしい。
そう、瞳を飽かず見つめて、首を少しだけ傾けて。
あとは名前の一つも熱っぽく呼んでやれば、
「ジャーフ」
「ぼーっとしてないで手を動かしてください」
口が二つ目の音を形どる前に、ぴしゃりと声がかぶさった。
逆に、ずいとジャーファルの顔が迫ってくる。
執務用の机に片手をついて、それを支えに近づいてくる口元は見かけは笑っている。
普段、一般の民に対しては穏やかで人当たりのいい彼は、こんな優しそうなひとが八人将だなんてと疑われることもあるという。
知らぬが仏、とはこのことだ。
ああ、今のはいったいどこの国の言葉だったかな、と関係のないことが頭に浮かんでくるのは、一種の逃避に違いない。
ジャーファルは笑顔だ。
だが、
「我が王におかれましてはどうやらこんな昼下がりの時間になっても未だしかとお目覚めではないご様子。お手元の書類はなんとしてでも本日中に決済をいただきたいところなのですがね、散々待たされた挙げ句のこの切羽詰まりようなのですから。お目が重いようなら差し出がましいですが私が覚醒させて差し上げましょうか?」
長々とした言葉を一口に言ってのけ、きらりと光るのは黒い瞳だけではない、袖の下で光る刄もまた恐ろしい。
的確に狙った獲物を捕獲し捕らえて決して放さない。
老若男女、万人を問わず著しい効能をもたらすはずの自分の視線がものの役にも立たないことを理解して、これは降参した方が賢い選択のようだ、とさすがにシンドバッドでもわかる。
「………………ごめんなさい」
背中を丸めて素直に謝ると、堅い笑みが、ふ、と緩んだ。
「仕方ないひとですね」
解れた笑顔は、確かに虫も殺さなそうな善人のそれに見える。
一瞬見惚れた自分を自覚した。
もう、と微笑むジャーファルの方が、よほど自分の視線よりも効力があるのではないかと思ってしまう。
まあ、ジャーファルが世間体でなく真実笑顔を向けるのは、長い時間を共にしてきた自分か仲間か、はたまた子どもたちかくらいなもので、誰彼構わずというものではない。
誰も彼もこの政務官の虜になられてはたまったもんではないから、それはいいのだが。
しかし、そう考えるとやはり理不尽だ。
長く過ごし幾多の冒険を力を合わせて乗り越えてきた自分にこの笑顔が向けられるのは、まあ当然だろう。
それにしたって、そうそうあることではないのだが。
こんな関係を築くまでにいったいどれほどの時間を根気よく費やしてきたことか。
出会った当初に殺されかけたことを思えば、奇跡にも近い進歩である。
そう考えればこそ、時間の長さでいえばほんの数か月しか過ぎていない子どもたちに、いとも簡単にこの笑顔が与えられているという現状に、ますます理不尽は積もるばかり。
またも考え事に耽け始めたシンドバッドを、ずいとジャーファルが覗き込んできた。
やばいまた怒られる!
と焦ったが、どうやら杞憂だった。
「シン?」
「あ、ああ」
「もしかして、お疲れですか?」
今度は若干気遣いの色を乗せて、眉がひそめられている。
ああ、しまった、心配をかけるのは本意ではない。
シンドバッドのためならどんな困難でも厭わない忠実なる部下は、いささか心配性すぎるきらいもある。
疲れているわけではないのだと首を振ると、そうですかと、あっさりジャーファルは引いた。
身体ごと。
自分だけに向けられていた気遣う瞳が遠退いて、ああしまった、やはりもう少し間近で眺めておけばよかった、と小さな後悔。
今頭の中を覗かれたら、あんた頭溶けてませんか、とでも詰られること受け合いだ。
表情は隠して笑ったつもりだが、ジャーファルはこちらをちらりと見て、溜め息を吐いた。
離れたと思ったら、脇の机にあった茶器で茶をいれて、差し出してきた。
どうやら一服入れてよいということらしい。
受け取って温かい茶を啜る。
ほどよい温度の液体は喉越しが滑らかで、胃に入る前にじわりと身体に染み入っていくようだ。
こういうさり気ない気遣いができるのもジャーファルのよいところだ、と自然笑顔が乗る。
シンドバッドの顔が和んだ頃合いを見計らってだろう、ジャーファルが声をかけてきた。
「で?」
「ん?」
ジャーファルが小首を傾げた。
「何が理不尽なんです?」
すっかり茶に和んで忘れかけていたが、そうだった。
事の発端はそれだ。
ず、と最後の雫を啜って考える。
心の内に燻るものをそのまま放置しておくのは性に合わない。
自分は根っからの前向き体質で、思うことを相手に伝えずにはいられないのだ。
空になった器を置いた。
「その顔、」
「顔?」
「不公平だ」
「…………………この、何の変哲も特徴もない顔がいったいなんだって言うんです」
ジャーファルは変な顔をした。
不公平というなら誰もが羨む容姿と体躯を兼ね備えたあなたの方でしょう、と呆れた顔だ。
その顔と目と声で、いったい何人の人間を誑かしてきたことか、ジャーファルがわざとらしく指折り数えて、溜め息を吐いた。
「数えるのも馬鹿馬鹿しい。あなたにその気で見つめられて平気な人間なんて、この世に存在しないんじゃないですか?」
たった今、その効力のなさを身をもって証明してみせた政務官殿は、まったくの無自覚らしい。
そう、それも理不尽だ。
世の中の誰に効果があったとて、肝心の一人に効かないのでは意味がない。