恋愛戦略
「退屈だわ」
どこでもない場所、誰でもない存在になった晶馬は、突然かけられた言葉に心底驚いて視線を上げた。ずっと下を向いていたから誰かがそこにいるなんて考えもしていなかった。目の前には見たことのない少女がいる。どこか荻野目苹果をほうふつとさせる面差しのその少女は、いつかどこかで聞いたことのある声で、なぜかまっすぐに晶馬に語りかけていた。
「遊びましょうよ、晶馬君」
「え……僕?」
全く状況がつかめずに晶馬は戸惑った。先ほどまで落としていた視線を再び落とせば膝の上に冠葉が頭を乗せて眠っている。ここに来てからの冠葉はよく眠る。よほど疲れているのだろうと思ったから起こすのは忍びなく、けれど離れてしまうのは淋しく、だから晶馬は冠葉に膝枕をして、無垢な寝顔を見つめてひと時の幸せに浸っていたのだった。
「だって、さっきからあなた、冠葉君の寝顔みてはにやにやしているだけなんだもの。退屈しちゃった」
「にやにやって……言いがかりだ! 一体僕がいつそんな表情を……」
浮かべたかもしれないと、こっそり思う。だって先ほどまでここに自分たち以外の誰かがいるなんて思いもしなかったし、ようやく冠葉は自分の元へ帰ってきたわけだし、冠葉は起きているときの憎たらしさはどこへやら、無邪気な顔で素直に晶馬に身体を預けているし……
「プライバシーの侵害だ」
ふくれつらでそう言うと、
「あら?」
少女は実にかわいらしく微笑んだ。
「そんなものが存在すると思っていること自体、幻影よ」
「うう……基本的人権の侵害だ……」
ぼやきながら、晶馬は恨めしい気持ちのまま少女を見た。
「大体、遊ぼうって言ったって、僕は今冠葉の膝枕やってるんだからできるはずないだろ?」
「痺れるねえ」
耳慣れた声がした。左後方を振り返ってみると、陽毬の主治医のはずの眞悧の姿があった。
「眞悧先生?!」
とっくの昔に死んだはずで、でも運命の列車で自分だけは冠葉を救えるのだと言っていた男の姿に戸惑いを隠せない。しかし、成りゆきは晶馬を無視して進んでいく。
「どうする? 桃果ちゃん。彼はお兄さんといちゃいちゃするのに忙しくて遊んでくれないってさ」
からかうような口調。自分だけの大切な時間をからかわれるような物言いに晶馬はむっとして押し黙る。
「あなたは黙ってて」
桃果と呼ばれた少女(そういえば荻野目さんの姉がそんな名前ではなかっただろうか)は、にべもなく眞悧の言葉を切って捨てる。それからゆっくりと晶馬に歩み寄りながら、聖女のような微笑みを浮かべた。
「ねえ、晶馬君。もし、あなたがお兄さんともう一度やり直せるとしたらどうする?」
「僕が……冠葉と?」
なぜそんなことを尋ねられるのかわからない。ただ一つ、強く思うのは…
「もし、冠葉ともう一度やり直せるのなら……自分が愛されてないなんて、絶対にそんな勘違いはさせない。…させなくない……」
「そうよね」
聖女の微笑みのまま桃果は頷いた。
「ねえ晶馬君。あなたにチャンスをあげるから、もう一度冠葉君を育ててみない? それが私の提案するゲーム」
「え……?」
戸惑って晶馬は冠葉を見下ろす。眠るのに履いたままではきついだろうと外したブーツは、脱がした足首の細さに心臓が破裂しそうになって、片方だけ傍らにおいてある。脱がせたら変な気持ちになりそうでそのままにしている黒いコートが、解体された鳥のように広がっている。黒い服に彩られた白い肌はまるで夜空の月じみて、淡く発光しているように晶馬の目には映る。頬を撫でれば、淡い暖かさと指先に心地よい滑らかさ。晶馬は思わず微笑んでしまう自分を自覚した。
「悪いけど……」
視線を上げて桃果を見る。
「今の冠葉でいいよ。僕は今の冠葉が好きだ」
はっきりと拒絶した。
「だよね」
耳なじみのある相槌が背後から聞こえてくる。桃果は声のした方をきっぱりと指差した。
「晶馬君。悪いけど今の冠葉君はあの男のお手付きよ」
「え……?」
少なくとも見た目は年端もゆかぬ少女に告げられた内容が理解できずに、けれど確実に不穏な内容を受け止めて晶馬はその場に凍りつく。
「可哀想だけど、彼は変態。おおよそほとんどのことはもう冠葉君は経験済みよ。これからあなたはどんな行為を試してみても、常にあの似非医者と比べられてしまうの」
こんな子供が、冠葉菌並みに下品なことを語っている。そこに晶馬は違和感を覚えないでもなかったけれど、このところすべてが何でもアリで、だから今回も素直にそこは目をつぶることにする。というよりも、目をつぶれないのはそこじゃない。
どこでもない場所、誰でもない存在になった晶馬は、突然かけられた言葉に心底驚いて視線を上げた。ずっと下を向いていたから誰かがそこにいるなんて考えもしていなかった。目の前には見たことのない少女がいる。どこか荻野目苹果をほうふつとさせる面差しのその少女は、いつかどこかで聞いたことのある声で、なぜかまっすぐに晶馬に語りかけていた。
「遊びましょうよ、晶馬君」
「え……僕?」
全く状況がつかめずに晶馬は戸惑った。先ほどまで落としていた視線を再び落とせば膝の上に冠葉が頭を乗せて眠っている。ここに来てからの冠葉はよく眠る。よほど疲れているのだろうと思ったから起こすのは忍びなく、けれど離れてしまうのは淋しく、だから晶馬は冠葉に膝枕をして、無垢な寝顔を見つめてひと時の幸せに浸っていたのだった。
「だって、さっきからあなた、冠葉君の寝顔みてはにやにやしているだけなんだもの。退屈しちゃった」
「にやにやって……言いがかりだ! 一体僕がいつそんな表情を……」
浮かべたかもしれないと、こっそり思う。だって先ほどまでここに自分たち以外の誰かがいるなんて思いもしなかったし、ようやく冠葉は自分の元へ帰ってきたわけだし、冠葉は起きているときの憎たらしさはどこへやら、無邪気な顔で素直に晶馬に身体を預けているし……
「プライバシーの侵害だ」
ふくれつらでそう言うと、
「あら?」
少女は実にかわいらしく微笑んだ。
「そんなものが存在すると思っていること自体、幻影よ」
「うう……基本的人権の侵害だ……」
ぼやきながら、晶馬は恨めしい気持ちのまま少女を見た。
「大体、遊ぼうって言ったって、僕は今冠葉の膝枕やってるんだからできるはずないだろ?」
「痺れるねえ」
耳慣れた声がした。左後方を振り返ってみると、陽毬の主治医のはずの眞悧の姿があった。
「眞悧先生?!」
とっくの昔に死んだはずで、でも運命の列車で自分だけは冠葉を救えるのだと言っていた男の姿に戸惑いを隠せない。しかし、成りゆきは晶馬を無視して進んでいく。
「どうする? 桃果ちゃん。彼はお兄さんといちゃいちゃするのに忙しくて遊んでくれないってさ」
からかうような口調。自分だけの大切な時間をからかわれるような物言いに晶馬はむっとして押し黙る。
「あなたは黙ってて」
桃果と呼ばれた少女(そういえば荻野目さんの姉がそんな名前ではなかっただろうか)は、にべもなく眞悧の言葉を切って捨てる。それからゆっくりと晶馬に歩み寄りながら、聖女のような微笑みを浮かべた。
「ねえ、晶馬君。もし、あなたがお兄さんともう一度やり直せるとしたらどうする?」
「僕が……冠葉と?」
なぜそんなことを尋ねられるのかわからない。ただ一つ、強く思うのは…
「もし、冠葉ともう一度やり直せるのなら……自分が愛されてないなんて、絶対にそんな勘違いはさせない。…させなくない……」
「そうよね」
聖女の微笑みのまま桃果は頷いた。
「ねえ晶馬君。あなたにチャンスをあげるから、もう一度冠葉君を育ててみない? それが私の提案するゲーム」
「え……?」
戸惑って晶馬は冠葉を見下ろす。眠るのに履いたままではきついだろうと外したブーツは、脱がした足首の細さに心臓が破裂しそうになって、片方だけ傍らにおいてある。脱がせたら変な気持ちになりそうでそのままにしている黒いコートが、解体された鳥のように広がっている。黒い服に彩られた白い肌はまるで夜空の月じみて、淡く発光しているように晶馬の目には映る。頬を撫でれば、淡い暖かさと指先に心地よい滑らかさ。晶馬は思わず微笑んでしまう自分を自覚した。
「悪いけど……」
視線を上げて桃果を見る。
「今の冠葉でいいよ。僕は今の冠葉が好きだ」
はっきりと拒絶した。
「だよね」
耳なじみのある相槌が背後から聞こえてくる。桃果は声のした方をきっぱりと指差した。
「晶馬君。悪いけど今の冠葉君はあの男のお手付きよ」
「え……?」
少なくとも見た目は年端もゆかぬ少女に告げられた内容が理解できずに、けれど確実に不穏な内容を受け止めて晶馬はその場に凍りつく。
「可哀想だけど、彼は変態。おおよそほとんどのことはもう冠葉君は経験済みよ。これからあなたはどんな行為を試してみても、常にあの似非医者と比べられてしまうの」
こんな子供が、冠葉菌並みに下品なことを語っている。そこに晶馬は違和感を覚えないでもなかったけれど、このところすべてが何でもアリで、だから今回も素直にそこは目をつぶることにする。というよりも、目をつぶれないのはそこじゃない。