午睡
ついつい、目の前の光景を、というよりも、目の前の輝かしいひとをじっと見つめてしまっていた。
お前はすぐに食事を疎かにするんだからちゃんと食べなさい、と、保護者然とした言葉が降りかかるのに笑ってしまう。
出会ったばかりの頃は、食事という行為に生命維持のための栄養摂取以外の意味を感じなかった自分に、誰かと共に食卓を囲む幸福を根気強く教えたのもこのひとだ。
これを食べろあれがうまい、これはきっとお前が好きだから、と、目の前に料理の山を築かれて呆気にとられたものだ。
さすがに勧められるままにすべてを食べきることはできなくて、途方に暮れた回数も片手の指ではすまない。
幼い子どもの世話をするだなんて、おそらくこのひとにとっては初めてだったのだろう。
加減のわからないまま、けれど、わからないなりに一生懸命に自分を生かそうとしてくれた。
理解しようとしてくれた。
優しくしてくれた。
煙たがらずに触れてくれた。
何度も撫でてくれた。
温かった。
手のひらが。
温かった。
笑顔が。
温かった。
このひとの存在そのものが。
「ジャーファル?」
本当に食べないつもりかと、若干心配そうな顔が身を屈めて下から覗き込んでくる。
「食欲がなくても、これなら食べられるだろう」
だからほら、と勧められたのは、昔、あの頃にもよく口にしたのと同じ料理だ。
快活に食事をするようには、ジャーファルの胃は頑丈にはできていなくて、なかなか食べきることができなかった中で、これだけは好んでよく食べた。
ちゃんと覚えていてくれるのだ。
そもそも、今日、小言の山を築かれる危険を冒してまでわざわざジャーファルを昼時に訪ねてきたのは、仕事に根を詰めすぎる自分を少しでも癒すためだろう。
下手をすれば一日中部屋の中に閉じこもって、南国の太陽を満喫もしない自分を心配して。
だからこのひとは、こんなにも温かい。
「………食べます、けど」
「けど、なんだ?」
器を渡されて、あの頃と変わらず自分を気遣い大切にしてくれる空気に浸るだけで、シンドバッドの顔を見ているだけで、
「私はもう、あなただけでお腹いっぱい、なんですけど、ね」
まったくかわいいことを言ってくれるものだ、とシンドバッドは内心で感涙に咽んだ。
ジャーファルにとってシンドバッドの存在が絶対で一番なのは昔から常にだが、成長するにつれて表現はやはり大人しくなっていった。
人として、またシンドリアを支える重鎮として、これ以上ないほどに成長を遂げたジャーファルは、今ではもう、昔のように素直に甘えてくることもない。
むしろ、自分の方がいかにジャーファルに甘えさせてもらうかで苦心する毎日だ。
が、時折、こんな風に不意打ちでくるからいけない。
やっと食事を平らげて、ジャーファルはてきぱきと片付けにかかっている。
さすがにここまでお茶を持ってくることはできなかったようで、戻ってお茶でも飲みましょうか、とジャーファルが首を傾げて問いかけてくる。
ジャーファルはシンドバッドの好みをよく心得ていて、温度だとか濃さだとか、一番いいように入れられるのは彼しかいない。
確かに、この幸福感のまま、ジャーファルがいれた茶を啜って昼食の仕上げをするのもいい選択だ。
いい選択だが、陽の下に出ていくらか頬に赤みがさしたジャーファルの顔を、もう少し眺めていたいという思いもまた、正直な気持ちだ。
放っておくと一日中執務室から出ないこともある。
少しでも陽のあたる外で、休息をとらせてやりたかった。
仕事の大半を任せてしまっている身ではあるが、シンドリアはまだまだ国の基盤を強固なものにする取り組みの真っ最中。
文官の長であるジャーファルに頼らざるを得ない部分が多いのだ。
だからこそ、無理をしがちな彼を、大事にしてやりたいと思う。
「シン、戻りませんか?」
そわそわしだしたのは、午後の仕事への取りかかりの遅れを気にしてのことだろうか。
まったく、と思うが、それもこれもシンドバッドのため。
ジャーファルの行動原理の根底には、基本的にシンドバッドしかいない。
しかし、まだ午後の始業の鐘は鳴っていない。
もうしばらくは猶予があるはずだ。
「そうだなあ、」
言いながら、立ち上がる気配のないシンドバッドに、怪訝そうにジャーファルが身を屈めてきた。
もしかして眠いんですか、こんなところで寝られたら困るんですけど、と、手を伸ばしてきたジャーファルをくいと捕まえる。
立たせてくれと手を出したのと勘違いしたらしい。
仕方ないですね、と呟いて引っ張り上げようとしてきたので、勢いをつけて逆に引っ張りこんだ。
シンドバッドの胡坐をかいた足の間に膝をついて、そうすると、ちょうど視線がいい高さに合う。
シンドバッドが僅かに見上げる姿勢。
「シン?」
なんですか、とシンドバッドの肩に手をおいて、崩れそうな体をバランスをとって、ジャーファルが首を傾げた。
陽の下で間近に見る顔は、シンドバッドの傍だからだろうか、とてもいい顔をしている。
救い出してやりたかった闇の中、あそこから連れ出してもう何年が経つだろうか。
背中に明るい太陽を背負って、光の中にあるジャーファルは、とてもきれいだ。
指先で頬に触れる。
片手はジャーファルの腰へ。
くすぐったそうに身動ぎした目元を、優しくなぞる。
「昼食の後にすることは、決まっているだろう?」
「………なんです?」
そのままぎゅうと抱き締めた。
背中に腕を回すと、陽を受けたそこはほのかに温かい。
しかしそれ以上に、腕の中の温もりが自分を微笑ませる。
「昼寝、だよ」
昔、そうだった。
自分がただの冒険者で、ジャーファルがただの子どもだった頃。
船の上の風に揺れるマストの下で、宿をとった街の陽だまりで、うとうとと幼い体を抱え込んで眠ったものだった。
すっぽりと腕に収まってしまう細い体は、それでも子どもらしい体温で自分の腕を温めた。
温もりを与えてやるつもりでいて、しかし本当は、与えられていたのは自分の方かもしれない、安らぎを。
「何のん気なこと、言ってるんですか」
仕事、これ以上滞ったらどうしてくれるんです、一応の抵抗は聞こえたが、本気で抗う様子は見せない。
ことりとシンドバッドの肩口に顎を乗せて、ふふと笑う気配。
耳にジャーファルの愛しい吐息がかかって、幸福感が増す。
もっと身近に感じたくて、腕に力を込めた。
温もりを与えるように、温もりを貰うように。
午睡にまどろむ幸せな時間、忙しい今では望むべくもないそれを、今日くらいは再現してもよいだろうか。
2012.1.6